5月15日のブログの続き
文久3年(1863)6月2日
・長府藩より使役の弘中益次郎が入来、従来(異国船を発見した場合)合図として2発を砲発していたが、今後は異船体の船を見た時点で1発、いよいよ異船と見定めた時点で1発と云う合図にしたことを罷り出て届け引き取った。
6月5日
・6つ半時(午前7時頃)異国船軍艦2艘が上方(東方面)より来て豊前国田ノ浦沖に繋船したので、例の通り砲発を指示した。御人数相揃い裏町本行寺へ御出馬のところ、切れ切れに砲発するなか一先ず田中へと御陣替えされた。9つ半時(午後1時頃)又々御陣を駆け引きの為に本行寺へ移された。
5つ時(午前8時頃)より7つ時(午後4時頃)まで大砲をしきりに打ち掛けられた。前田(台場・砲台)の道を横矢にて絶ち切って台場を打ち破りバッテーラ(ボート)7~8隻でおよそ500人余りが上陸放火した。
前田の農家15、6軒も焼失、台場備え付けの大砲台を焼き払い小銃にて陸戦となったが、敵の撃つ弾丸は70間(約127m)余りのところで戦っても十分勝てる、此方の撃つ弾丸は60間(約109m)にして勝負に成り兼ね、即死怪我人等もあるに及び敗走した。
異人は山に登り散兵戦術で覗き見ながら撃って来るので、少人数では防戦出来ず引き退いた処で様子を伺うと本船に引きの退いた。
バッテーラで陸地に乗り付けた節に異人を2人打ち留めていた。
異船が繋船している場所には此方の砲弾が届かない為に打ち出さないとの注進があったが、異船の去就、退船が不確かな為(若旦那様は)宿陣されることになった。
・今日の状況を厚狭へ連絡し追加の人数を差し出すように申し送った
・毛利左京亮(長府藩主)様の使者三好新蔵が差し越され、左京亮様には一ノ宮へ御退陣になったことを御達し申し述べられた
・毛利刑馬より彦島宮ノ原より人数を引き連れ会所まで引き取ったことを使役の井上宇六を以て御達しになった。
※長府藩主の使者の名が「三好新蔵」とあるが、これは後に坂本龍馬と親交を結び護衛役にもなった槍の名手「三吉慎蔵」と思われる。当時長府藩主の側近くに仕えこの下関戦争にも参加している。
🔘今回相手としたのはフランス軍艦・タンクレード号及びセミラミス号で5月23日の仏国船への砲撃に対する報復の為来襲した。敵の上陸を許していて、彼我の大砲や小銃の性能が大きく異なることが正直に記録されている。
🔘今日の一句
病葉を蹴落とし去りぬ夜半の風






