4月27日のブログの続き
文久3年(1863)6月朔日(1日)
・若旦那様(馬関惣奉行・厚狭毛利家世子・毛利宣次郎)5つ時(午前8時頃)前より、若殿様(萩藩世子・毛利元徳)今日お帰りになることから御送りとして御旅館まで御出になった。
然し御留守に若殿様陣廻りとして此方御殿にお入りになった。御家老御用人は御門外に平伏、詰め居た諸士は御式台前に相揃い平伏、一応お座敷へ御通りなったが間もなく御帰りになった。
外営(がいえい・本陣外に駐屯)の面々は御本陣御式台前へ相揃うようにしたが間に合わなかった。
・長府城山より合図の砲発が聞こえ、俄に若旦那様が御陣屋へ御帰りになった。兼ねてよりの通り合図を仰せ付けられ、御一手人数相揃い御出馬、若殿様御旅館へ御陣を成し御指揮を採られた。
・若殿様は壬戌丸(じんじゅつまる・長州藩軍艦)に乗船し小郡までお帰りになる都合で既に御乗船されていた処、異国船1艘が上方から乗り下った為、俄に小舟で引き返しになり伊崎日和山・海晏寺(かいあんじ)に御避けになり、その後此方の御本陣会所御殿に御入りになった。中山侍従卿(公家・中山忠光)益田弾正(長州藩家老)様も御出でになった。
・異国軍艦は蒸気を立てて乗り込んで来たので、前田、杉谷その他の台場(砲台)より打ち掛け、庚申丸、癸亥丸(こうしんまる、きがいまる・長州藩軍艦)も打ち掛けた。
異国船は(長州藩の)軍艦2艘の間に乗り入れ、南部沖に係船の壬戌丸を見掛けて襲来してきた為壬戌丸は細江沖まで引き退いた、庚申丸、癸亥丸より挟み撃ちに打ち掛け、壬戌丸よりも打ち出したものの異国船は軍艦であり害を与えきれていない。異国船から打ち掛けられた砲弾は(長州藩軍艦の)蒸気釜に打ち当てられ湯が溢れ8、9人も怪我人が出た。
その他機関にも打ち当てられ2度出火騒動を起こし、漸く火を消すも沈むを待つばかりとの注進があった。
庚申丸が打ち潰され沈没したとの注進があり、即死が5~6人怪我人は数々との注進があった。
異国船は上方指して引き取ったので分散の為の法螺貝を吹き、御一手人数は引き払いを仰せ付けられた。御家来中(厚狭毛利家家臣団)は堀和太右衛門(厚狭毛利家臣)が引率して引き払った。
・若旦那様は御旅館に留まられ暮六つ(午後6時頃)御帰陣された。
・毛利左京亮(長府藩主・もうりさきょうのすけ)様より御見廻りとして御側用人(おそばようにん)・中川作左衛門と申す方、御式台に入り来て申し置かれた。左京亮様は長府功山寺まで御出陣になられていたことを申し上げ引き取られた。
(付けたり)異国船より焼き玉(砲弾に火薬を詰めたもの)を打ち掛けられ南部町・網三(あみぞう?)方の蔵を焼失したが程なく鎮火した。
・今日の次第を萩、厚狭へ飛脚を以て申し越しになった。
🔘今回の相手異国船は米国軍艦・ワイオミング号で、5月10日米国商船・ベムブローク号に砲撃したことへの報復の為に単艦で来襲した。米国側にも6名の戦死者が出ているが、彼我の実力差は歴然で、これ以降長州藩では攘夷への無力さを身を以て悟ることになる。
🔘今日の一句
郷土史が誘(いざな)ふ時空灯の涼し
🔘施設の中庭と畑の近くで育てられているクレマチス





