5月5日に書いたように「教科書が教えない楠木正成」の本を読んだことに触発されJR神戸駅に近い湊川神社に行って来た。
元々大阪八尾から神戸に引っ越すに当り、三木城址と湊川神社は訪れたいと思い、三木城址は済ませた(2024年2月16日ブログ参照)ものの、湊川神社の方は何時の間にか後回しになっていて、本に引っ張られて腰をあげた次第である。
この湊川神社は主祭神が湊川で戦死した楠木正成(大楠公)とその一族郎党、副祭神が大阪四條畷(しじょうなわて)で戦死した正成の子・正行(まさつら・小楠公)である。
楠木正成と正行の事績を語るには一冊の本が必要だが、ここではなぜ正成が神戸湊川に祀られているかだけ簡単に書いておきたい。
鎌倉北条氏に不満を持つ武士を糾合した後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし元弘3年(1333)天皇親政・建武の新政を開始する。
新政は公家に片寄った為、武家の不満が高まり源氏の嫡流であった足利尊氏が反旗を翻す。尊氏は一旦九州へ落ち延びたものの建武3年(1336)西国武士の大軍を率いて東上を開始する。
後醍醐天皇に従う正成は、足利軍を敢えて京に入れ兵糧攻めにする策を献ずるが、建前に固執する公家衆の反対を受け、迎撃の為既に布陣の新田義貞等を助力すべく兵庫の地に向かう。
海と陸から攻め寄せる足利の大軍に対し衆寡敵せず新田と楠木軍は分断され、正成は孤立包囲され奮戦するも700騎が70人余りに減り、もはやこれまでと一族郎党共に自決した。これを「湊川の戦い」と称する。
この自決した場所が湊川神社の境内に当たる。その後地元でひっそり祀られていたが豊臣秀吉の太閤検地で表に出て免租地となった。
元禄5年(1692)勤皇の志ある水戸藩・徳川光國(黄門様)が家臣を派遣、有名な自筆の墓碑を建立した。幕末長州藩・吉田松陰はこの墓碑を拓本にして松下村塾の座右に掲げていたといわれる。
明治維新と共に各地から神社創建の建議が成され、明治元年明治天皇より神社創立の御沙汰が下る。
その実務を担ったのは、長州人で松下村塾に学び初代兵庫県知事となった伊藤博文で、境内地の選定収用などに当たった。
・表神門


・大鳥居から本殿

・本殿



・墓所

・墓碑、徳川光國直筆・「嗚呼忠臣楠子墓」(ああちゅうしんなんしのはか)



・境内で手作り市が開かれていた

・藤棚

・宝物殿では楠木正行(小楠公)関係の展示会があり日本画で事績の説明と奉納の刀剣、正成着用の鎧などを見た(内部は撮影不可)

🔘ふるさとの長州人と湊川神社との繋がりも再確認出来て良い機会となった。
🔘今日の一句(5月の句会に出した)
楠公(なんこう)の社(やしろ)詣でる朝燕