4月17日のこのブログの続き
文久3年(1863)5月27日
・(下関攘夷戦)出陣の際、これまでは甲冑(かっちゅう・鎧兜)着用にて出陣してきたが、これ以後は小具足(こぐそく)陣羽織(じんばおり)にして出陣のするようご指示が成された。
・厚狭より雑兵具足(ぞうひょうぐそく・足軽が着用する防具)8領、その他家来宛の荷物、馬沓(うまぐつ・馬のひづめの防具)、草鞋(わらじ)等が船で送られて来たので各々受け取りを指示をした。
5月28日
・若殿様(萩藩世子・毛利元徳)海岸御巡見として下関へ今日御出になる(知らせがあった)。
・若旦那様(馬関惣奉行・厚狭毛利家世嗣ぎ毛利宣次郎)お迎えとして白石正一郎方にてお待ちになっていた処、俄に吉田に御止宿され明日お着きになるとの知らせがあり夜に入って御帰館された。
・(厚狭毛利家と同じ一門家の阿川毛利家の)毛利豊之進様、同伊勢様より御側使いが陣屋へ差越された。
5月晦日・30日
・若旦那様は5つ時(朝8時頃)より若殿様御旅館へお出でになり御一緒に彦島御台場(ひこしまおだいば・彦島砲台)をご見分された。御旅館へお帰りの上、酒一樽4斗入り肴一器御頂戴され万端首尾よく成った。御礼の儀は直々に仰せ上げ済み、御酒肴等は御筆者衆(書記役)より手紙を以て御陣屋に御持たせに成った。
手紙の内容
(若殿様)御意の旨 覚え
毛利宣次郎(宛)
暑気の折に長々の在陣、急ぎの駆け引き等の心配、祝着に思う、この後も精々油断なく任務を遂行すること
・若殿様へ新鮮鯛一折二尾を献上された。
・夷族降伏の為来月朔日(1日)と2日(下関)亀山八幡宮へ臨時御祭事を(若殿様より)仰せ付けられた。出張の面々末々に至るまで参詣は勝手次第と御筆者衆より通達された、内輪(厚狭毛利家関係)にも同様触れ出された。
・吉武隼見、新藤荒城、(何れも厚狭毛利家臣)滞陣中西洋稽古を実施する苦労に対し銀二両の目録を下され御礼を申し出た。
🔘砲撃戦を行う過程で従来の鎧兜では動作に支障があり、防御効果も少ないことから従軍に当たっては小具足(鎧兜は着用せず面貌(めんぼう・顔の保護具)、籠手(こて・腕の保護)、すね当て(足の保護)等動作に支障がない部分の保護具を着用する)姿にするよう指示が出され、洋式軍制の稽古等と併せこの時期明らかに武士の世界が変わりつつあることを端的に示している。
高杉晋作が長州藩奇兵隊を結成するのは同年翌月6日のことである。
🔘今日の二句
散髪を済ませ街角初燕



