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「鷗外 森林太郎」/ヒトリシズカ(一人静)

山崎國紀(やまさきくにのり)著「鷗外 森林太郎人文書院刊 を読み終えた。

著者は日本近代文学の専門家で森鷗外に関する著作や論文を多く出されている。

冒頭、大正11年7月9日亡くなった森鷗外の有名な遺書全文が紹介され、死因は発表(萎縮腎)とは異なる肺結核であり、栄光と苦渋に充ちた61年の生涯であったと書かれている。

栄光の方は分かりやすく、亡くなる直前まで帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)を勤め陸軍軍医の頂点・軍医総監まで累進した一方、明治を代表する文筆家でもある。

苦渋の方がこの本の主題のようにも感じられるが、その一端が遺書のなかにあると解かれている。

~余ハ石見人森林太郎卜シテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死ノ別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎卜シテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス~

著者は日記、小説、関係者の手記などを読み解きその苦渋を以下のように分析している。

・権力の内側にいることによって生じる被害者意識、例えば己れの官僚生活や実生活にまで影響力を及ぼした権力者・山縣有朋、陸軍軍医部内の軋轢など。

・ドイツ留学時代に知り合い「舞姫」のモデルといわれる女性・エリーゼとの交際と不本意な別離。

・自らの不治の病と職務上それを秘匿せざるを得ない状況。

・弟や愛児の死、先妻の離別、母親と年若い妻との争いなど家庭問題。

またこれらのうっ積が奔出して創作活動に向かわせたとも論じている。

また遺言に石見人とあり、森家が津和野藩の御典医であったことや、永年鷗外が旧津和野藩主・亀井家の「家政相談人」であった事実などを踏まえ、著者は森鷗外を形成した核心は石見国(いわみのくに・島根県)津和野(藩)にあると解いている。

津和野は私のふるさと長州に隣接する山陰の街で非常な親近感がある。昭和2年山陰地方を旅した島崎藤村は以下のように書いている。

津和野は長州の境に近い山間の小都会である。~津和野に来て見るとここはすでに長州の色彩が濃い。石見からするものと、長州からするものとの落ち合つたところが、津和野の津和野らしい感じであつて、ちやうど真水と潮水との混じり合つた河口の趣に似てゐる。

(幕末、幕府による第二次長州征討・四境戦争での石見側・石州口の戦いでは津和野藩は中立を貫き、大村益次郎率いる長州軍は津和野を素通りして幕府に与する東側の浜田藩を壊滅させた)

森鷗外は祖母や父親が長州人であったといわれ、後年陸軍内で長州出身の山縣有朋乃木希典に親しんでいたのは、その血脈や地理的環境も大いに関係していたと思われる。

この本を通じ今までその歴史小説高瀬舟」「阿部一族」「寒山拾得」などでしか知らなかった森鷗外の輪郭がよりはっきり近くなってきた気がしている。

🔘今日の一句

 

鷗外も常の人らし花の冷え

 

🔘施設の庭のヒトリシズカ(一人静)

庭にヒトリシズカが咲いていると施設の職員さんに教えて貰った。名前は知っていたが目にするのは初めてで10~15cm丈位の小さい姿である。

源義経の想い人・静御前に関係しているのではと思っていたがやはりそうで、以前は静御前が吉野で舞った由来などから「吉野静」とも云われていたらしい。

「鷗外 森林太郎

表紙は津和野生まれの画家・安野光雅が津和野の街を描いたもの




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