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「自他ともに、オリコウとされてきた男たちへ」徳川慶喜批評

月刊誌・文藝春秋には例月かなりのページを費やし巻頭随筆が載せられていて、筆者が毎回変わる部分と、継続して同じ筆者の部分がある。

イタリア在住で代表作「ローマ人の物語」の塩野七生さんが「日本人へ」と題する連載は257回を数える後者の方である。

最新の文春3月号では「自他ともに、オリコウとされてきた男たちへ」と題して、「今の日本にも掃いて捨てるほどいる」と筆者が云う表題の人物像を、最後の将軍・徳川慶喜に代表させて、いつもの調子でこき下ろしている。

その骨子は以下の内容である。

慶喜は出自も頭のよさも世間の評判も抜きん出ていた学校秀才。

・学校秀才の欠点は自分の思考の中に入っていない策で出てこられるととたんにガタガタになる。

・慶応4年(1868)「鳥羽伏見の戦い」で薩長軍側に錦旗が掲げられた。表面上これで薩長軍は官軍になり徳川軍は賊軍となった。

慶喜重臣たちに「錦旗が出た」と告げ自らの部下や本陣である大阪城を置き去りに捨て海路江戸ヘ逃げ帰る。

・その錦旗は岩倉具視大久保利通が作ったいわば「でっち上げた」もので慶喜はそれを信じ込み全てを投げ出した。

私は以前から徳川慶喜に対して否定的で、勿論塩野さんがここで書かれているように「鳥羽伏見の戦い」での敵前逃亡がその最たるものであるが、その他に「天狗党の乱」の振る舞いにも疑問がある。

慶喜水戸藩の出身で将軍を出す家柄の一橋家を継いだ。水戸藩では内戦「天狗党の乱」があり敗れた側の天狗党は「禁裏御守衛総督」として京に居た慶喜に嘆願のため西上するも慶喜は断固拒絶、結果的に天狗党は越前敦賀幕府軍に極めて非道な扱いを受けたうえ、352人もの多数が切腹ではなく斬首された。

水戸藩ではこの乱を契機に血で血を洗う粛清があり人材が涸渇、尊皇攘夷の先駈けでありながら明治維新での座る席が無くなってしまう。

また自分(徳川慶喜)を京都で支え続けた会津藩などが、戊辰戦争で官軍に壊滅させられる情報を慶喜はどう聞いたのかどう思ったのか大いに疑問がある。

🔘今日の一句

 

吾妻屋(あずまや)の片隅照らす黄水仙

 

🔘施設の庭の片隅、小梅の春




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