一昨日3月7日の記事の続き、
関ヶ原合戦後防長2州36万石に封じられた毛利輝元は、幕府の意向を踏まえ萩に居城を定めると共に、当時の毛利家の重しであった二人の内、毛利秀元を九州や関門海峡の抑えとして下関長府へ、吉川広家を山陽道や瀨戸内海の抑えとして岩国ヘ配置、それぞれの城普請を開始した。
また厚狭毛利家を含む一門家臣や有力家臣の領内配置を決定すると共に、末家と称する支藩を幕府に届け出た。支藩は萩毛利家の家臣であると同時に諸侯として徳川将軍家の家臣という位置付けで、参勤交代を行い江戸城に席を持ち官職を得る。
立藩の時代に前後はあるが萩毛利家(長州藩)の支藩は以下の3家である。
岩国に入った吉川広家には3万石(後に公称6万石)が与えられており、本来諸侯(大名)の待遇を受けるべきであったが、関ヶ原合戦の経緯や家中の声もあり、萩毛利家は幕府に対し立藩の届けを行わず、江戸時代を通じ「岩国領・吉川氏」というあくまで萩毛利家の家臣という位置付けであった。
この為萩毛利家と岩国吉川家の間には江戸時代を通じてわだかまりがあり、厚狭毛利家を含む萩毛利家の一門家臣と吉川家との間にも家格を巡る争いが生じた。
幕末、萩(長州藩)毛利家が尊皇倒幕志向を強めるなか岩国は全体的に佐幕的傾向であったが、幕府の第一次長州征討では長州藩と幕府の間で仲介を行った。
第二次長州征討いわゆる四境戦争では、「防長御一和」と呼ばれる和解が成立し、一丸となって幕府の大軍を迎え撃つことになった。岩国兵は芸州口(安芸国・広島方面)で幕府軍と戦い勝利に貢献した。
この功績もあり大政奉還後の慶応4年(1863)新政府によって正式に岩国藩として認められ、関ヶ原の戦いから260年の時を経て永年の岩国の悲願がかなったことになる。
長府・串崎城と岩国城は築城の途中、江戸幕府が慶長20年(1615)一国一城令を発布したため、共に破却されている。
吉川広家は、岩国城は周防国(すおうのくに)では唯一の城であることを理由にして破却に抵抗したようであるが、毛利輝元が幕府を憚り強硬に指示、実行された。
岩国城のパンフレットによると、旧の石垣が崩されぬまま穴太積み(あのうづみ・加工せず自然石のまま積み上げる工法)のかたちで残されている箇所があるらしい。
また現在の天守は昭和37年(1962)に復元されたものだが、錦帯橋付近からの見栄え景観を確保するため旧の位置より約50m南へ移動しているとのことで、昨今のインスタ映えを先取りした誠に現代的で面白い話である。
一昨日載せた同級生から送って貰った錦帯橋から城方向の写真で、現在地から天守が北ヘ50m移動したと仮定すると確かに姿は林で遮られて見えなくなると想定され、再建時の思惑をなる程と思わせる。
🔘今日の一句
鶯餅深山(みやま)越えゆく母の里
🔘施設の庭、初めて観察する百合の実殻、植物は季節によって色々変身していくものだと感心する。




