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岩国領・吉川(きっかわ)氏のことなど①

ふるさと山口県に住む同級生から岩国の錦帯橋の写真と岩国城のパンフレットを送って貰った。

住んでいる施設のグループ・24年会には二人の岩国出身者が居られることもあり、防長二州(周防国長門国山口県)を治めた萩・毛利藩内で特殊な位置付けであった岩国領や領主・吉川氏のことなどを、この際知り得る範囲内で2回に分けて書いておくことにした。

送って貰った錦川に架かる錦帯橋とその背後の岩国城の写真

吉川氏は駿河国(するがのくに・静岡県)吉川を本貫(ほんがん・出身地)とする国人(こくじん・在地領主)で鎌倉幕府御家人として頭角を表す。

4代・経光の時代、武士の世を決定付けた「承久の乱(じょうきゅうのらん)」(1221)で戦功を挙げ、安芸国(あきのくに・広島県)の地頭職を与えられ、5代・経高の時代にその本拠を安芸国大朝(おおあさ)に移したことで、同じく安芸国国人領主・毛利氏と接点が生じる。

14代興経の時代、吉川家では内紛もあり毛利元就の妻の縁から元就の次男・元春を養子に迎え、天文19年(1550)家督を継ぎ吉川元春が吉川家を率いることになった。

元就三男で小早川家を継いだ小早川隆景と共に、以後激動の戦国時代後期を毛利宗家を支え続け「毛利の両川(りょうせん)」と謳われ、吉川は主に山陰道を、水軍も持つ小早川は瀬戸内を含む主に山陽道を掌握した。

元春の跡を継いだのが広家で、宗家では元就の孫・毛利輝元が当主、時代は豊臣(桃山時代)から徳川(江戸時代)への過渡期に当たる。

慶長5年(1600)天下分け目・関ヶ原合戦に際し、毛利輝元は反徳川、西軍の総大将格として大阪城に入り、毛利軍は西日本各地で行動を起こすと共に、吉川広家を含む主力は主将・毛利秀元に率いられて関ヶ原へ着陣する。

この時、吉川広家は宗家の家老・福原広俊などと語らい、東軍徳川方との和平交渉を水面下で進めており、決戦場では中立を守ることを決意していた。

決戦は比較的短時間で東軍の勝利で決着、毛利軍は指揮統制が一貫せず、一発の鉄砲も撃つことなく大阪城ヘ向けて退陣、毛利輝元は東軍諸将の甘言に引きずられ大阪城を退去し徳川家康の裁断を待つことになる。

家康は毛利輝元が西軍の主将格であったことを口実に、広家等との和平交渉での前言「所領は従前通り」を翻し、毛利家を中国地方8ヶ国120万石の太守から周防、長門2ヶ国(現在の山口県域)36万石へと減封、毛利家は混迷のなかやむを得ずこれを受け入れるが、この事で家中での吉川広家に対する反感が大きく高まることになった。

🔘今日の一句

 

税務終え鶯餅を褒美買ひ

 

🔘船舶シリーズ、垂水沖を東へ向かう名門大洋フェリー、大阪南港と北九州市門司港を結ぶ航路で私も山口へ帰省の際何度か車と一緒に乗船した。

 




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