2月13日馬関軍中日記⑧の続き
(文久3年5月10日攘夷実行期日、長州藩の下関海防総奉行を務めた厚狭毛利家当主・毛利元教は米国商船への砲撃指揮の不手際を咎められ嫡子・宣次郎への交代を命じられた。)
5月18日
・若旦那様(宣次郎)彦島(ひこしま・下関の地名)を巡検に出掛けられた。船は厚狭御用所(厚狭毛利家役所)より用意した。
5月19日
・若旦那様、御一手(総奉行指揮下の萩藩士)の陣屋を見分(けんぶん)の為に夕飯後騎馬で出かけられ間もなくお帰りになった。
5月20日
・蔵元付き源三郎、栗柄組の三五郎は追々罷り出て(西洋)太鼓を教えているので銀一両宛ての目録を下された。(1月30日のブログ・馬関軍中日記⑦参照)
・若旦那様が深編笠(ふかあみがさ)で顔を隠され小姓3~4人を引き連れ、地理見分の為御出掛けになった。お忍びであり内輪でも知る人はまれである。
5月22日
・毛利左京亮《さきょうのすけ・長府藩主・毛利元周(もうりもとちか)》様より使番・野々村勘九郎が式台へ入来、追っ付け左京亮殿がお見廻りとして陣屋にお出でになるとのお知らせがあった。(付;お土産として酒十樽の目録持参、御一手、庚申丸、癸亥丸(2隻共長州藩軍艦)、光明寺(党)へも下しおかれるよう申し述べ引き取られた。)
・門外にて野々村勘九郎が待ち受け。
・左京亮様騎馬でお出でになり門外で下馬、若旦那様は下座敷へお迎えにお出になった。御家老、御用人、御奏者は御門内へ御迎えした。
御手元役の来嶋又兵衛(きじままたべい)が罷り出て、下座敷へは木次恭三郎(厚狭毛利家臣)が付いた。(左京亮様は)御家老・三吉内蔵之介、御刀取りがお付きとして御上がりになった。
・御茶、煙草盆、御菓子等を差し出されたと相聞こえた。詳細は御手廻り日記に書かれてある。
・間もなくお帰りになり御迎えと同様に御送りした。(付;御迎え御送りとも(若旦那様は)外にお出になる筈であったが急場のことで御履き物も無くやむを得ず下座敷のこととなった)
・長府表へ今日お出で頂いた事への挨拶として三戸源四郎(厚狭毛利家臣)を口上付きで代理で遣わした。(帰着後御酒が下された。)
・長府侯の訪問に関わる御一手方への挨拶として厚狭毛利家臣を遣わした。
☆来嶋又兵衛は幕末長州藩の大組士、厚狭の隣、西高泊村(現、山陽小野田市)生まれ、文武に秀でた尊皇攘夷派で頭角を表し、周布政之助、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作等と親交があり、長州藩諸隊のひとつ遊撃軍を組織、「禁門の変」では強硬論を唱え隊を率いて京都へ進軍、御所・蛤御門の戦いで壮烈な戦死を遂げる。
この日記に突然来嶋又兵衛が登場したので少々びっくりして手元にある「来嶋又兵衛伝」を見直して見ると、又兵衛はこの日記と同時期、文久3年(1863)5月6日に下関出張、同10日に馬関総奉行手元役を命じられていて、厚狭毛利家当主の補佐を藩から課せられていたことがわかった。
このような予期せぬ出逢いが歴史を追跡する楽しみのひとつである。
🔘今日の一句
春日和鳶高く舞い地球知る
🔘施設の庭、ピラカンサ




