1月30日のこのブログ「馬関軍中日記⑦」の続き、
(5月10日の攘夷実行期日に下関海峡で長州藩がアメリカ商船に砲撃した後の記録)
文久3年(1863)5月16日
・長府侯(下関の大部分を領地とする長州の支藩・長府藩主・当時第13代毛利元周)へ御見廻りの使者として真辺始人(厚狭毛利家臣)を葛(くず)二升(白木折詰箱入り)を用意して差し遣わした。
・口羽須摩殿、佐竹三郎右衛門殿(長州藩寄組士で厚狭毛利家の親類)両人が山口(当時藩主は山口に居住)に呼び出しされ旦那様(厚狭毛利家当主・元教)の謹慎を申し渡された。
佐竹殿は今夕下関に来て伝えられ、口羽殿はすぐさま萩へ戻られた。
・若旦那様(厚狭毛利家世嗣ぎ・宣次郎)山口に於いて下関一手の総奉行役を仰せ付けられ旦那様と交代のため直ぐ様小郡、厚狭経由で夕方七つ時(16時頃)下関に到着された。
厚狭毛利家臣の士分お供の10名の名前が付されている。
・旦那様今夜中に萩へお帰りになるので9日から16日までの(経費)払いとして銀2貫666匁4分を岩本勝次郎(厚狭毛利家臣)へ渡し置いた。
・旦那様今夜御船にて厚狭下津川口までお越しになると仰せになり船二艘を借り上げ御座船、御供船として荷物の積み込みを用意した。
・御供として10名の士分の名前が付されている。
・桜井慎右衛門(厚狭毛利家臣)を騎馬で連絡の為厚狭へ派遣した。
・旦那様夜四つ時(22時頃)下関新地波止場より御乗船された。
旦那様は厚狭で昼膳を召し上がるので用意するよう厚狭へ連絡した。
・佐竹三郎右衛門殿、藤屋清兵衛(厚狭毛利家の下関での御用達町人)方へ宿を取り置き酒肴を用意した。同人殿は御供船に乗り込まれることになり同時刻出帆された。
5月17日
・長府侯、清末侯(下関に領地を持つ長州の支藩・清末藩主・当時第8代毛利元純)へ使い役として二歩俊祐を遣わし若旦那様が旦那様と昨夕交代で着任され旦那様が帰萩されたことをお知らせした。
・若旦那様夕方より壇之浦辺りまで騎馬で巡検された。御供は国司信濃殿(厚狭の隣万倉領主・長州藩家老職)他
🔘攘夷実行期日のアメリカ商船に対する総奉行・毛利元教(厚狭毛利家当主)の慎重な対応は、将兵特に攘夷の志士の集まりである久坂玄瑞率いる光明寺党の反感を買った。
これを受け藩政府は、直ちに攘夷を実行せず指揮を失したとして元教を謹慎に処し、萩へ帰り居館で蟄居謹慎、7月14日に至って赦された。
ただ藩政府は、アメリカ商船が幕府の御用状を運んでいた状況を認め情状を酌量し、厚狭毛利家の嫡子・宣次郎(元教の異母弟)を総奉行に任じ代わって下関での指揮をとらせた。
🔘今日の一句
相呼ぶや宵の明星春の月
🔘船舶シリーズ・垂水沖をタグボートに曳かれて西へ行く大型起重機船。
見通しが悪く船籍が分からないがクレーンを倒して航行する起重機船は初めて見た。この方が重心が低く安定するのは勿論だが。
