2月1日のこのブログで触れた「日本人の姓・苗字・名前 人名に刻まれた歴史」は、私に様々な日本史に関する示唆を与えてくれる貴重な機会になった。
その中で私が追跡している萩・毛利氏のことが「武家の官位剥奪の意味」と題する章で、具体的な例として挙げられている部分があり、折角の機会なのでここに書き残しておきたい。
武家官位の叙任文書を発給するのは天皇であるが、江戸時代は将軍の推挙を要した。戦乱が終息した世では官位(官職&位階)というステータス、栄誉の授与を新たな御恩として大名の忠誠心を引き出すシステムとして武家官位制が機能した。
官位を剥奪されることは幕藩体制における身分的位置付けを失うことであり、公に対外的活動は出来なくなる。
このブログでは色々な切り口で何度も取りあげて来たように、元治元年(1864)長州藩が京都御所に突入した「禁門の変」後、長州藩主・毛利慶親(よしちか)と世子・定広は朝敵となり天皇から官位(慶親・従四位上参議左近衛権中将・じゅしいのじょうさんぎさこんえごんのちゅうじょう)、(定広・従四位下左近衛権少将・じゅしいのげさこんえごんのしょうしょう)をはく奪された。
更に将軍家からは毛利家代々の称号(慶親・松平大膳大夫、定広・松平長門守)と将軍からの偏諱(へんき・慶は十二代将軍家慶、定は十三代将軍家定から賜与)の使用を停止された。
この処分により慶親は名を敬親(たかちか)、通称を大膳、定広は名を広封(ひろかね)、通称を長門と称した。
長州藩が政治の表舞台に立つ為には両人の官位復旧が必要であり、藩ではこれに奔走するが実現出来たのは慶応3年(1863)「王政復古の大号令(クーデター)」の直前で、これにより長州藩の入京が可能になった。
<注>
・長州藩主は歴代、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)か長門守(ながとのかみ)を称することが通例になっていた。大膳大夫は朝廷に於ける饗膳を扱う役所の長官名、毛利家二代・毛利隆元(元就長男)が任ぜられた由緒がある。
長門守は長門国の国主を象徴している。国持ち大名例えば伊達氏は陸奥守、島津氏は薩摩守を称することが認められていた。
・武家官位制はステータスの授与権を将軍が握ることで機能していたが、一方ではこの官位の叙任を介して天皇と君臣関係を結んでいたことになる。
幕末、外圧のなかで尊皇思想が高まると薩摩、長州などの大名はこの官位を介して朝廷の臣下としての意識が強まり、天皇への忠誠から倒幕へとつながるきっかけともなった。
🔘今日の一句
雲間より光の絵筆須磨の春
🔘施設の庭、初めて見た枯れたフヨウ(芙蓉)の花殻と種子



