大藤 修(おおとうおさむ)著「日本人の姓・苗字・名前 人名に刻まれた歴史」吉川弘文館・歴史文化ライブラリー を読み終えた。
私は元々歴史に興味がある方なので、その流れから地名や人名にも興味があり、各々初めての出逢いの際はついその歴史的背景を考える癖がある。
著者は私と同郷(山口県)同世代の近世史の専門家のようで、「プロローグ」や「あとがき」には歴史研究の中で過去の史料を読むと登場する有名無名の人名から、逆に歴史に遡ろうとする意図が察せられる。
人名は世界的に見ても「氏(うじ)」と「個人名」で構成される例が多く、日本でも明治時代以降法律上「氏」と「個人名」に一本化されたが、この系譜や社会集団を示す「氏」には元々「姓」と「苗字(名字)」の二つがあり両者は由来も機能も別のものである。
この本には表題の通り上記内容は当然として、膨大な内容が詰め込まれ多くの知見を得ることが出来とても書ききれないが、ここではたまたま私が厚狭毛利家の歴史を追跡するなかで出会った内容と合致している二つのことを書いておきたい。
①禁字
家臣が主君と同じ実名を名乗ることや、同字を名前に使用することははばかられ、江戸時代諸藩では具体的に名前や字を指定して家中領民を対象に禁字法令を発布した。
厚狭毛利家代官所日記の記録
・元治元年(1864)12月27日
厚狭毛利家に世嗣ぎが誕生し英之輔(えいのすけ)と命名され、英の字を禁じ既に使用の場合は改名を布告
・慶応元年(1865)4月9日
萩毛利本家に男子誕生、興丸(おきまる)と命名、同様に関連する字を禁じる
②官職名の規制
室町戦国時代は官位制の形骸化が進み、大名などは朝廷からの任官を経ず自ら家臣たちに文書や口頭で非公式に官職名を与え主従の絆を強化していたが、江戸時代になると武家官位の授与は実質的に将軍が掌握、勝手に官職名を使うことに規制を加えた。
・「山陽町史」によると、厚狭毛利家九代毛利元教(元美)は元服時に藩主より大隅守(おおすみのかみ)を与えられたがその後、飛騨または能登と称し、国司や守護を意味する官職名・守は使用していない。
同時期の萩毛利家家老で禁門の変の責任をとって自刃した福原越後、国司信濃なども同様に守が除かれている。
🔘今日の一句
野鳥(とり)の名を十五覚えて春を待つ
🔘施設介護棟の屋上庭園、ネメシア




読み終えた本
