1月12日のブログ「馬関軍中日記⑥」の続き、
朝廷と幕府が取り決めた、外国船を打ち払う攘夷実行期日・文久3年(1863)5月10日、長州藩では下関海峡のアメリカ船に砲撃を加えた、その後の記録。
5月11日
・5月10日の状況を厚狭及び萩へ報告の為、御用状(公式の書面)持参の使者を各々派遣した。
・昨夜の大砲の音が厚狭へも響き不穏な状況から、厚狭の当役(御用所責任者)からお伺いとして家臣2名が寄越されて来た。この2名は元々下関へ出張予定のもので、そのまま滞在することになったが、内1名を日を限って厚狭へ差し返した。(状況連絡の為と思われる)
5月12日
・旦那様(厚狭毛利家当主・元教)御一手(総奉行指揮下)の陣屋々を騎馬で巡検された。
・新たに厚狭毛利家家臣14名、中間(ちゅうげん・奉公人)5名が下関に到着した。
5月13日
・長府侯(長府藩主)の使番が来たり、九州小倉藩(小笠原家)からの使者の手控(書面)を持参申し出た。(内容は不明)
・(総奉行が)栗柄組の肝煎(きもいり・村役)弥兵衛を召し呼ばれ源三郎、三五郎と申す者へ西洋太鼓を教えてくれるよう仰せられ、お請けを申し出た。
(組の名が入っていることから弥兵衛は下関近辺の百姓身分と思われるが、どうして西洋太鼓を習得しているのかはわからない。源三郎、三五郎は厚狭毛利家領内の中間か百姓と思われるが、この頃既に洋式軍隊への知識や関心が芽生えていたことがよく分かる)
5月14日
・旦那様は船で各台場(大砲陣地)を見分の為出掛けられた。尚、船は厚狭の御用所(厚狭毛利家役所)より仕立てられた。
5月15日
・出関の面々(下関出張の厚狭毛利家家臣)は今日下関御一手(総奉行指揮下の萩藩士)の人数と寄り合い(武術の)稽古を指示された。
・厚狭より(萩からの)御用状が差し送りされて来た。
・総奉行の自筆書簡を至急便で厚狭へ差し送り、急いで萩表に登って届けるよう手配した。
🔘藩(萩)との書状のやり取りは、10日の米国船砲撃の指揮の是非に関わるものと推定される。
🔘今日の一句
蝋梅が微風(そよかぜ)誘ひ香を託す
🔘施設介護棟屋上庭園の蝋梅が香り高く咲いている。






