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初詣と食事で三田(さんだ)ヘ/三田藩・九鬼(くき)氏

昨日は住んでる施設の企画「冬のグルメツアー」で兵庫県三田市ヘ行って来た。

未だ初詣に行っていないことと併せ、兵庫県に来て二年半になるが三田へは初めてのこともありバスツアーに応募した。

三田市は住んでる場所から北東方向に車で約1時間、神戸中心部から背後の六甲山系を越えたところにあり、最近は交通の発達で大阪や神戸へのベッドタウンという位置付けで、山間部にありながら人口減少とはなっておらず街にもニュータウンの家屋が連なっている。

私の現役時代にも身近に三田から大阪へ通勤されている方が居られた。

私が三田に興味を持っているのは江戸時代、この地に有った三田藩(3万6千石)の藩主家が九鬼氏であったことが大きい。

九鬼氏は元々伊勢国(いせのくに)や志摩国(しまのくに)(何れも三重県)の海を地盤とする豪族で、戦国時代中興の祖とも云える九鬼嘉隆(くきよしたか)が織田信長の幕下に入ると、九鬼水軍として志摩国一円を領して織田家の海軍を担当し頭角を現す。

九鬼水軍は私が追跡する毛利氏とも因縁があり、信長が大阪の石山本願寺を攻めた際、毛利氏が配下の村上水軍を使って本願寺へ兵糧を入れ支援したことで直接衝突することになった。

当初村上水軍の勝利で兵糧入れに成功したが、その後信長の指示で九鬼水軍は日本で初めて鉄張りの軍船(いわゆる信長の鉄甲船)を建造、この船の防御力と大砲の火力で村上水軍を圧倒、本願寺開城ヘの決定打のひとつとなった。

秀吉の時代を生き抜いた後の関ヶ原の戦いでは、当時九鬼嘉隆家督を守隆(もりたか)に譲っており、守隆は東軍へ加担して志摩国・鳥羽5万6千石を安堵されたが、守隆の死後家督争いが表面化、幕府は九鬼氏の志摩国の領地を召し上げ摂津三田藩・3万6千石、丹波国綾部藩・2万石に別々の家として分封し明治維新まで続く。

両藩とも海に面しておらず九鬼氏は水軍の名を失うことになった。

もとは御家騒動咎められたことにあるが、背景にあるのは徳川幕府鎖国政策、諸大名の海軍力を制約する動きに伴うものとも考えられる。

①三田天満神社初詣

主祭神は云うまでもなく学問と五穀豊穣の天神様・菅原道真である。参拝して初めて分かったのだが、江戸時代は三田藩・九鬼家の御祈祷所でもあったらしい。

随身門(ずいしんもん・神社の外側にある門で随身という神社を守る神像が安置されている)に九鬼家当主書の扁額が掲げられてあった。

遺徳燿萬春(遺徳は永遠の春にかがやく)

一旦分かれた幹が再び繋がる「連理」と呼ばれる山茶花の古木(台風で倒れたものを遺してある)

撫でると幸せを授かるという撫で牛像

②昼食は関西各地にステーキレストランを展開する三田屋の本店でハムとステーキ、旨い!

久し振りにビールを飲んでしまった。

🔘今日の一句

 

軒柱紛う氷柱や山の古寺




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