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二歩家文書①馬関軍中日記⑥

202412月26日のこのブログの続き

文久3年(1863)5月9日

・堀亀齢、雑賀正之進、別当中野数右衛門、先達ってより御馬を購入するため九州ヘ出掛けていたところ馬五匹を下関に連れ帰ったことを届け出た。雑賀正之進、中野数右衛門はすぐさま馬四匹を引き連れ厚狭へ還らせ、残り一匹はここ(下関)へ留め置いた。

<注記>

3名は何れも厚狭毛利家中で、分限帳(ぶげんちょう・武士の身分禄高記録)を当たると堀は上士、雑賀家は馬乗りとされている。また中野数右衛門の名の前に別当と書かれているが、種々の意味あるこの職名のなかには「厩務員」の意味がある。従って、堀は軍馬買い付けに馬の専門職2名と共に九州ヘ出向き、5頭を買って帰ったことになる。

5月10日(朝廷と幕府が指示した外国船を打ち払う攘夷実行日)

・夕七つ時(午後4時頃)上方より異(夷)船一艘下り来た、アメリカ船に長崎の安蔵と申すものが水先案内として乗り組み、老中松平伊賀様より小笠原豊後守様宛御用状(実際は神奈川奉行浅野伊賀守より長崎奉行大久保豊後守宛)を所持長崎へ下るとのこと。

長府藩使番(つかいばん・伝令)・田坂右門が来たり、是非とも打ち払うべきとの所存だが御奉行様(厚狭毛利家当主)の指揮は如何様かとの問合せであった。

・御老中の書簡を所持し、水先案内人も乗り組んでおり、打ち払いは不同意であるとお答えになった。

・間もなく庚申丸と癸亥丸(こうしんまるときがいまる・何れも毛利藩軍艦)が下りかかったところ、異船は豊前国(ぶぜんのくに・福岡県)田ノ浦沖の東方に繋船していた。

・探索中の壮士(久坂玄瑞等の光明寺党)は庚申丸に乗り組み船将・松島剛蔵と共に異船に大砲を打ち掛けた処、異船は急に蒸気を立ち上げ上方ヘ退去した。

・この為用意手当てしていた合図の空砲三発を打った処、御一手(総奉行指揮下の軍)の人数は甲冑陣羽織小具足(この時は旧来の鎧兜の軍装であったことがわかる)にて教練場に揃い、総奉行も出馬されたが異船退去の知らせがあり、解散の合図で各々の陣屋ヘ引き取った。この時旦那様(厚狭毛利家当主)内輪の際は小具足、一統が詰めている際は陣羽織であった。

<注記>この局面を要約すると、

朝廷と幕府が合意した攘夷実行当日、アメリカ船が関門海峡に差し掛かったが、その船は幕府要人の書状を携えた水先案内人が乗船していた。

この為長州藩下関攘夷総奉行である厚狭毛利家当主・毛利元教は砲発を止めさせた。然し総奉行指揮下にない諸国の浪士も混じった久坂玄瑞等が率いる一団(光明寺党)は、藩の軍艦艦長等と示し合わせて砲撃を加えた。

この行き違いが、厚狭毛利家や厚狭にとって幕末史の不手際のひとつとしてこの後大きくのし掛かって来ることになる。

🔘今日の二句

 

嘴(はし)細き鴉が帰る冬茜

 

小啄木鳥(こげら)来て枝で懸垂冬麗(ふゆうらら)

 

🔘施設介護棟の庭、ガーベラ

 




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