12月14日のこのブログの続き
文久3年(1863)5月5日
・青木利兵衛が萩より攘夷の御触れ出しを持参した。御用済み次第即日差し返した。
<注記>
(青木利兵衛は明治3年の給録帳をみると厚狭毛利家萩屋敷付きの大工の嫡子であり、この頃厚狭毛利家は戦時総動員体制であったことが伺える。また長州藩では5月10日の攘夷実行を前にして藩内に「御触れ」を出していることも分かる)
・中山侍従卿が先日(惣奉行に)御挨拶に来られたことにつき今日、世木太兵衛以下3人を旅宿の白石正一郎方ヘ挨拶口上の為派遣された。尚口上内容が当日会えなかったことヘのお詫びと御礼の趣旨で日記に記載されている。
・然し中山侍従卿は今朝から狐狩りに出掛け留守で取次の士分も不在の為、白石家手代の者ヘ事情を申し入れ引き取った。
・太兵衛ヘ(惣奉行より)御酒が下された。
・旦那様七つ時(午前4時頃)より大坪(地名)辺りまで騎馬で巡見された。
・二歩駿祐六日の休暇を終えて厚狭より帰関を届け出た。
<注記>
(中山侍従卿とは攘夷急進派の公家・中山忠光のことで、攘夷実行を前にして久坂玄瑞や浪士組に担がれ下関の光明寺を屯所とする「光明寺党」約50人の盟主となっていた)
(この「光明寺党」は厚狭毛利家当主が任じられている海防惣奉行指揮下から外れた存在になっており、この事が後日外国船への砲撃実行に当たり禍根を残すことになる)
(白石正一郎は長州藩の支藩・清末藩の御用商人として下関で荷受け問屋を営んでいた。高杉晋作、久坂玄瑞等と親交があり長州奇兵隊を財産を傾けてまで資金援助した。また西郷隆盛とも親交があり坂本龍馬なども一時期身を寄せた)
5月7日
・長府藩より(異国船来航時の)合図の砲発など諸々の打ち合わせのことを知らせ来た、詳細は触れ控えに書かれている。またこの事を詰めている人々に回付した。
・薄暮の時分空砲の音しきりに聞こえる折、長府藩より使番(つかいばん)・弘中壱太郎と申すものが騎馬で入来、異船に紛らわしい船が部先(地名)沖に下船しているとの届けがあった。尚兼ねてより打合せの通り合図をするべきか問い合わせがあったので御手元役・工藤半右衛門より「異船と見定めれば兼ねての通り合図するよう」答えさせた。
・同人が退去した後、間をおかず使番・田坂右門が罷り出て、「先刻弘中より申し上げた船は幕府の船に紛れなく観音崎沖に係船したもの」との口上で引き取った。
<注記>
(5月10日の攘夷実行期日を前にして下関の現場では極度に緊張が高まりつつあることが分かる)
🔘今日の一句
病棟を見上げてひそと冬のばら
🔘近くの施設、わずかに残る冬の薔薇




