11月18日のブログの続き、
(尚日記には下関のことを馬関、赤間ヶ関、下関など種々の表現があり以後下関で表記を統一する)
文久3年(1863)4月24日
・厚狭より飛脚が到来、(その内容は)萩より人数を吉田まで(当主出迎えの為)差し出すように申し来たが(対象の人員は)既に下関へ出ており、(厚狭で待機の)後詰めの人数を吉田まで厚狭から差し出し吉田よりお供をして出関させるよう指示された。
・既に下関に到着の面々は当主出迎えの為(途中の)長府神田橋辺りまで差し出す事とする。
・当主待ち受けの為本陣となる会所の作法通りの色々なしつらえ(例:各所への幕の張り方など)が記される。
・旦那様(当主)機嫌よく申ノ中刻(午後4時頃)下関着、会所御殿に入られた。
・直ぐに惣奉行指揮下の人数、諸役人が挨拶に参上応対された。
この記載の後に、萩より下関出張の御備付(そなえつけ)として行列の詳細、騎馬の者、弓槍などで従う者、当主の馬側に従う者、諸道具を運ぶ者、医師、等々が記録されている。
更に吉田にて待ち受けて行列前後の警衛に当たった厚狭毛利家家臣43人の名簿が付されている。(前記の通り元々これらの家臣は後詰めとして厚狭で待機する者達であり、下関到着の翌日厚狭へ還された)
(萩から下関への海防惣奉行としての厚狭毛利家当主の行列は小大名並の行列であったことがわかる)
4月25日
・先鋒隊(配下となる藩の正規部隊)の総人数が挨拶に罷り出るので表通(おもてどおり・厚狭毛利家下士)以上の身分の者に御目見(謁見)を指示した。
・国司信濃殿その他、下関に到着を届け来たる為お会いになった。
(後に「禁門の変」の責任をとって自刃する三家老のひとり国司信濃(くにししなの)は藩の上士・寄組士で大組頭であり組下の者と一緒に藩から海防惣奉行の一手に加えられていた。厚狭の東隣・万倉の領主であり、他の二人は永代家老家の出身だが国司信濃はその実力で昇進して家老職に就いた)
・本陣(会所)副陣(了円寺)への詰め番、不寝番の指示、夜間の自用外出禁止の指示などが成された。
4月26日
(下関地域は長府藩、清末藩、萩藩の直轄地が入り組んでいて両藩との調整は必須の課題であった)
・下関出張の面々にお酒が下された。
4月29日
・二歩駿祐本人が月末より往来を入れて6日間んの休暇を得て厚狭まで帰ったことが記されている。
以降続く
🔘今日の一句
寒き朝餌採る野鳥(とり)に種の格差
🔘施設介護棟屋上のケイトウ・鶏頭(セロシア?)




