11月9日ブログの続き、
文久3年(1863)4月21日
・旦那様(厚狭毛利家当主・元教)出発が1日延びて23日に萩を(騎馬で)出発、四郎ケ原(しろうがはら)宿陣、翌24日下関出張との知らせが萩より到来、御供の家来中へ触れを出した。
4月22日
・武器などの運搬を下津河口の船に予定していたが今日積み込みを指示した。
・この度出張する家来中に明朝七つ時(午前4時頃)御館(厚狭毛利家居館)に揃うよう指示された。
4月23日
・朝六つ時(午前6時頃)御館本門内に揃い守るべき規則(懸令・軍規)を読み知らせた、その後直ぐ梶浦宮崎まで押し出て乗船を指示された。読み知らされた軍規の内容は以下の通り。
※階級の上下を論ずることなく常に惣(総)奉行の号令を守ること。
※進む際には五人(一伍々々)の隊列を乱さないこと、用事がある時は伍長へ届けて抜けること、伍長に用事がある時は奉行へ届け許しを得て欠けること。
※海陸共道中は総じて無言と心得ること、但し法令や届けを伝えることは別である。
※兵糧の他はみだりに飲食しないこと。
※たばこは不可、総じて火をいじらないこと。
※私の遺恨から喧嘩口論しないこと。
※自分の頭(上司)を越えて訴え出ないこと。
※一銭の買い物でも伍長の許可なくしないこと。
※百姓町人に対し非義を行わないこと。
※身分の礼儀を乱すような不作法しないこと。
これらの条々を堅く守ること、もし違犯したものは厳重に処罰する。また(藩主からの)軍令は赤馬ヶ関の陣屋で申し聞かせる。
以下出張の人数として惣奉行、二歩駿祐本人をふくむ総計79名の氏名が記されている。
・四つ半時(午前11時頃)新地へ着岸し本陣(下関会所・長州藩の出先役所)へ落着、先鋒隊(毛利元教の指揮下に入る藩の正規部隊)は副陣である了円寺へ落着した。
・その他、厚狭毛利家家臣2名が先着し、本陣御殿の見分や掃除などを行ったこと。会所だけでは手狭なため(近くの)了円寺も借り受けるよう手配したこと。御用達町人の手配、本陣御殿の取り繕いや馬屋などの造作をしたことなどが記される。
🔘この時点で隊の編成が5人一組となっていることが読み取れ、洋式軍編成のはしりになっているのがわかる。
長州藩では「天保の大改革」を主導した村田清風(むらたせいふう)の献策によって、海岸防備を狙いとする大調練が天保14年(1843)萩城東の羽賀台に1万4千人を動員して行われている。
このとき厚狭毛利家当主・元教は一番備え頭(先鋒大将)として家臣を従え参加しており、このような経過を経て洋式編成がある程度受け入れられていたと考えられる。
🔘今日の一句
訛り声遺し友逝く今朝の冬
🔘施設の庭、小菊




