ふるさと厚狭には厚狭毛利家文書を始め色々な歴史史料が遺されているが、二歩家文書と呼ばれるものもそのひとつである。
これは厚狭毛利家家臣で幕末から明治にかけて生きた二歩俊祐の手になる膨大な日記(日誌)や記録、書状などを指す。
この内の一部は「山陽町史」に先立って刊行された「山陽町史資料編」や「厚狭図書館叢書」に原文旧字のまま収録されており、今回思い立って専門外ながらこの読解にチャレンジしてみることにした。
厚狭毛利家家臣団の階級は、家老・番頭(ばんがしら)・中臣通(ちゅうしんどおり)・中小姓通(ちゅうこしょうどおり)・表通・足軽・中間(ちゅうげん)の順になっている。
安政2年(1855)の分限帳(ぶげんちょう)を見ると二歩家は中小姓通、高15石でさほど高い家格ではないが、俊祐の遺した記録から、「先祖は朝鮮出兵時毛利元康(厚狭毛利家家祖)に従い渡海し帰国後300石を下賜され以後連綿として奉公した」と書かれている。
二歩家は厚狭毛利家居館の近く杣尻(そまじり)地区に居住、俊祐は11歳で厚狭毛利家九代房晃の子・宣次郎の側に仕え以後その才能手腕は高く評価され、主家側近として幕末維新の激動期の興亡を共にすることになる。
幕末の長州藩では下級武士の台頭の傾向が見られるが、厚狭毛利家に於ける二歩俊祐の活躍もこの傾向に通ずるものがあるのかも知れない。
二歩俊祐は特に文筆の才能に長けていたようで、これが今に遺る公私に渡る文書につながる。
彼には俊亮、駿祐、更には惟精(のぶあき)と記名したものも遺されている。
また「山陽町史」を取りまとめたひとり・江沢能求(えざわのうきゅう)氏の文によれば、二歩俊祐は伊藤博文とも親交があり、かつて再三の誘いがあったが中央へ指向することなく厚狭で余生をおくり、大正2年82歳で天寿を全うされたとのことである。
次回から先ず手始めに「山陽町史資料編中巻」に収録されている文久3年(1863)下関攘夷戦争の従軍記録「馬関軍中日記」を書いていきます。
🔘今日の一句
この句は10月28日のこのブログに載せた、ヒヨドリの写真を施設内に掲示して貰うのに合わせて作ったものです。




