あるきっかけから1980年に霊長類のフィールド調査の仕事でインドネシアを訪れた方の紀行文を読む機会に恵まれた。
ジャワ、バリ、スマトラ、各島を移動しての広範囲に渡るおよそ3ヶ月の滞在の記録である。
もとより専門的な部分にはなかなか理解が及ばないが、滞在生活のなかで社会的な部分を感じられたことを記録された以下のような箇所は、私も似たような記憶があり、ついインドネシアに仕事で行った時のことを振り返ることになった。
・外出先で出会う乳呑み子を抱えた女の物乞いなど、人々の貧富の差、
・突然雨台風のように襲い来る豪雨、
・ほとんど素っ裸に近い状態で地面にゴザを敷いて折り重なって眠る子供達、
・日本人が飲食で使うお金と現地の人が働いて得るお金の落差に伴う自己嫌悪、
・当時のガルーダ・インドネシア航空の評判の悪さ、
・現地で出会う日本人集団の醜態、
etc
私がインドネシア・ジャワ島の首都・ジャカルタを頻繁に訪れた時期は1990年代後半のいわゆる「アジア通貨危機」の最中であった。
当時現地企業との合弁会社が通貨危機のあおりで外貨が不足、資材調達がままならないため、従来現地向けに販売していた冷蔵庫などを日本に輸出する計画を立てた。
然し当時の現地の品質水準はとても日本市場に堪えられないものであり、その為の品質向上と必要な規格の取得のサポートを現地側から頼まれた仕事である。
私は日本とインドネシアを往き来しながら、その滞在のほとんどをジャワ島のジャカルタで過ごしたが、先の紀行文から10年以上経過している時期にかかわらず、ジャカルタ市内には危機時に発生した暴動の痕跡が残っていたりして、紀行文に書かれている内容と同じか、都市の印象としては以下のように更に悪かった気がする。
・子供達がゴミ捨て場をあさっている、車を停めると子供達が寄って来て物乞いする、
・通貨ルピアの下落で少しの買い物にも札束が必要、
・タクシーも選んで乗らなければ非常に危険、
然しこのような社会状況に関わらず、私が指導した工場の従業員はみんな真剣そのもので、これを成功させなければ自分達の将来がないという危機感が共有されていたように思われる。
したがって少々無理なことでもなんとか協力してやり切ろうとする動きが感じられ、当初は危ういと思えた日本向け輸出も、途中からこれは実行出来ると思えるようになり、初のコンテナを日本で迎え問題ないことを確認した時は胸に迫るものがあった。
当時のインドネシアはほとんどの基幹部材を輸入に頼る脆弱な経済体質だったが、工場の若い人達の前向きな動きを見ていて、この国はきっとこれらを克服して大きく成長するだろうと思ったが、今のインドネシアの発展状況を見ると勝手な予想が少し当たっているようで陰ながらとても嬉しい。
全くの余談ながら「乳呑み子を抱えた女の物乞い」はこれ以前から私が東南アジアを仕事で訪れていた時期の各都市の定番で、初めて遭遇した時はショックを受けた。
この頃現地で聞いた話ではこの物乞いに乳呑み子を一日幾らで貸し出す商売があると聞いたが、更に突っ込んで詳しく聞く気にはなれなかった。
🔘今日の一句
歩む背に声なく迫る秋の声
🔘施設の介護棟屋上庭園のコスモス、今年はあちこちのコスモスが酷暑の影響か育ちが良くない。




