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「昭和史裁判」

半藤一利加藤陽子著「昭和史裁判」文藝春秋刊 を読み終えた。

半藤氏は文藝春秋編集長を経て「歴史探偵」を自称する作家で、昭和史研究分野では必ず名前が上がり、私も太平洋戦争を理解する上で随分お世話になっている。

加藤氏は2023年11月14日このブログでも取りあげた近代史の専門家で、日本が歩んで来た戦争を含む昭和史に関する色々な角度からの研究は定評がある。

この本は昭和の日本を動かしたキーパーソンのなかで軍人を外し、政治家や外交官のなかから5人を選び両氏が検察や弁護の役割を担う形式で、5人の功罪を対談形式で縦横に論ずるもので、専門的な内容や固有名詞には都度編集部から行き届いた注釈が付されている。

昭和史の人物を扱った書籍で軍人を全く入れず文官のみというのは極めて珍しい。

5人は広田弘毅ひろたこうき)、近衛文麿(このえふみまろ)、松岡洋右(まつおかようすけ)、木戸幸一(きどこういち)、更に昭和天皇であるが、5人全てに触れることは昭和史そのものを語る必要があり不可能なので、ここでは戦後の極東軍事裁判で文官としてただひとり絞首刑の判決を受けた広田弘毅に触れさせて貰う。

広田弘毅は外交官出身で首相(1936~37)まで昇ったが広田の名前が戦後世間に浸透したのは作家・城山三郎が書いた「落日燃ゆ」に依っており、これを原作にしたテレビドラマも後押しした。

この本の対談のなかで私の新たな知見になった非常に重要で残念な広田弘毅に関する事実は以下の通り。

昭和12年に始まった日中戦争は国民党・蔣介石軍の抵抗にあって拡大消耗戦が続いた。日本は戦争を終結させようと密かに在中国ドイツ大使を介して和平交渉を開始した。

交渉途中日本は和平条件を提示して期限つきの回答を蔣介石に求めたが、期限を過ぎてもなかなか返事が来ず、督促したところもっと詳細な内容が知りたいとの返事があり、これを受け日本側の態度が硬化した。

当時の記録や蔣介石の日記からその時蔣介石は熱を出して寝込んでおり、返事をドイツ大使にもう少し待って欲しいと申し入れており、外務大臣・広田はその事を知っていた。

広田はその事を伏せたまま「中国側に誠意なし」との議論を主導し、首相・近衛文麿による有名な近衛声明「爾後(じご)国民政府を対手とせず(これ以後国民党蔣介石政権とは交渉をしない)」が出されることになり、真面目に日本の和平条件を検討していた蔣介石を徹底抗戦へと駆り立て、日中戦争は泥沼から抜け出せなくなっていく。

この本の全体を通じて考えさせられるのは、歴史や国家の命運は、時として個人の資質や働きによって左右されることがあり得るという冷厳な事実である。

🔘今日の一句

 

故郷の駅に人無く野菊待つ

 

🔘施設介護棟の屋上庭園、キバナコスモス




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