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ルー

「日本語はひとりでは生きていけない」を読んだ。現代の日本語がなぜかっちりした構造を持っていないのかを、その来歴から説き起こす日本語論、かつ日本文化論。大岡センセの大著。メチャ面白い。明治時代以降、日本語を捨てて欧米語を共通語として導入しようと言うアイデアを持つ人がいたのは聞いたことがあるけれど、それが大昔にやまとことばに漢語を混ぜ込んだことから来る言語としての不安定さと言うか定まらなさというかを嫌ってのことだと言う話は、びっくりした。いや、この本を読むまでは、自分の使っている言葉は大樹のようなもので、極めて堅牢で不変なものだと根拠もなく思い込んでいたわけですよ。だからこそ自分は安心して文章を書いているわけで。でも、そうじゃないんだ。もう一度いうけど、びっくりした。中でも一番ビックリしたのは、大岡センセが中国文学者の高島俊男の「山という字を「やま」と読むのは冷静に考えると奇想天外だ」という指摘を紹介するところだ。やまとことばじゃない「山」という字をやまとことばの「やま」に当てて、山へ木を切りに行った、とか書くけど、これは、mountainへtreeをcutりにgoった、と書くのと同型だ、というのである。もう私はここを読んで世界が崩壊しましたね。考えたこともなかったけど言われてみたらその通りで、これはなんてけったいなことをしているのだ私たちは、と思うわね。で、こんなけったいなことを続けてたら、精神が失調してくるものなのかもしれない、それで日本人は、、、みたいな胡乱な考えまで浮かんでくるわけよ。これはもう参った、という感じで、後は日本語の漢語受容(というかチャンポン化)の行ったり来たりの歴史の話が1つ1つもう面白くって。あともう1つ、そうなのか、と思ったのがやまとことばは情緒を表現することに長けた言語で、一方の漢語は論理を表現しやすいものだ、という話だ。そうかそれで日本文化の深層には論理を軽視する態度が存在するわけだ、などとまた胡乱なことを考えたりする。いや、私は以前、日本語の構造の定まらなさは、飛躍した文を作ることができて創造性の源になるんじゃないか?みたいなことを思ったことがあるのだが、最近は、だとしても論理が通らないために社会を上手く運用できないコストのほうが大きいじゃないか困ったものだ、と思うようになったものである。そうやって考えると、高校で漢文を教えるのをやめよう、なんて話には断固として反対しなくちゃいけないってことだな。話がそれたけど、ともかくこの本は、少なくとも私にとっては妄想喚起力が非常に強い本であった。大岡センセ、いつも面白い本をありがとうございます。

 




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