FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 3月16日放送分
映画『レンタル・ファミリー』短評のDJ'sカット版です。

アメリカの俳優フィリップは東京でひとり暮らし。CMやドラマの仕事をしていますが、最近は端役ばかりで鳴かず飛ばず。ある日、依頼者の「家族」や「友人」という設定の役柄を演じる人材派遣会社「レンタル・ファミリー」の社長と知り合い、カメラの前ではなく現実社会において演技をする仕事を請け負うようになります。
共同製作・共同脚本・監督は、大阪出身でアメリカを拠点にしている女性HIKARI。フィリップを演じたのは、製作総指揮にも加わったブレンダン・フレイザー。他に、レンタル・ファミリーの社長に平岳大、社員に山本真理が扮したほか、柄本明、森田望智、ゴーマンシャノン眞陽(まひな)、板谷由夏、安藤玉恵などが出演しています。日本で撮影されたアメリカ映画である本作は、サーチライト・ピクチャーズによってアメリカで昨年11月、そして日本では2月27日に公開されました。
僕は先週金曜の朝一番、Tジョイ京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

2019年から企画を動かし始めたというこの作品。監督インタビューを読むと、日本に300社ほど実際にあるらしいこうしたサービスへの調査を丹念に行い、興味深いエピソードを収集しつつ、オリジナルの脚本を作っていったようです。短編オムニバスのようにする方法もあったとは思います。こうしたサービスを必要とする依頼者それぞれの事情を章立てして順番に見せていくやり方。それでも十分に面白いとはおもうのですが、採用されたのは、依頼者たちのエピソードを組紐状に撚り合わせながら、異邦人の俳優を狂言回しにして、サービスを提供する側の葛藤や変化も同時に描くという、より高度で難しい構造でした。テーマそのものは、シンプルだしもはや古典的だと思います。都市生活者の孤独。その最新版をありきたりにならず、広く浅くもならずまとめた手腕はお見事です。
ただし、現実社会で誰かになりすますサービスを題材にしているだけあって、観客には倫理的に疑念を持たれたり、下手をすると嫌悪感を与えかねない物語なので、本題に入るまでのセットアップで楔を打ち込んでいおくことが重要です。そこを失敗すると、振り落とされる観客が出てきますから。HIKARI監督は、そこも大変上手でした。都市生活者の孤独を描くのに東京はうってつけですね。あの狭い場所にいかに大勢が暮らしているのか。渋谷の雑踏をテンポ良く切り取ってつなぎながら、そこでフィリップが冴えなくはあるが、絶望しているわけではなく、ひっそり暮らしていること。つましい暮らしの中にも、夜、古びた集合住宅の窓辺から向かいの集合住宅でそれぞれに暮らす人々をヒッチコックの名作『裏窓』よろしく観察することに密やかでささやかな喜びを見出していることが示されます。冒頭の引きの画だと人の数が多いだけにしか見えなかった東京人たちが、ここではまさに生活者としてそれぞれに与えられた人生を生きていることがわかる。それこそ、オムニバス的な光景を異邦人たるフィリップが眺めているという視点です。それがこの映画の前提であり、本題に入っていくということは、つまり、フィリップがその窓の向こう側に侵入するという行為に他なりません。

そして、最初の仕事が不意にやって来ます。それは、エピソードとして掘り下げはしないものの、ものすごくインパクトのある告別式への参列。そこで、フィリップも観客もかなりギョッとして戸惑います。でも、詳しくは言いませんが、とある人生に絶望していた若者が生気を取り戻す手助けをレンタル・ファミリーがしたことに淡い光を見出したこともあって、メンバーとして登録をするかどうか、レンタル・ファミリーの社長と面談をするわけです。そこで、フィリップが、さりげないけれど、とても重要なことを言います。「これって、人身売買みたいなものじゃないのですか?」って。このセリフが、僕は思うに楔として有効に機能しているように思います。フィリップは、そうした懸念とともに、前のめりどころか、気後れしながら、実際のサービスに従事していきます。観客同様、彼も懐疑的だし、あくまでだんだんとこのサービスの本質に足を踏み入れていきます。

各依頼者のエピソードには濃淡がありますが、いろんなケースがありましたね。同性愛の人、母子家庭の人、認知症の人、歌を披露する人、不倫がバレた人、ゲームの仲間がほしい人。社会の縮図ですよ。そして、レンタル・ファミリーのメンバーそれぞれにも、フィリップにも事情がある。それぞれの生きづらさがあって、それぞれに社会の中に落ち着ける場所を求めて蠢いている。決して、聖人君子ばかりではありません。虚しさや後ろ暗さを抱えながら、それでも生きる喜びや証みたいなものを求めている。性風俗なんかに従事しているキャラクターも出てきましたね。HIKARI監督は、そうしたひとりひとりを裁くことなく、スクリーンに映し出します。映画を観ながら、僕の頭に浮かんだのは、Everybody Needs Someone.というフレーズです。誰もが誰かを求めている。それがたとえフェイクだとしても、です。そう、フィリップが父親役を担当したミアという小学生の娘と一緒に映像を使った疑似水族館に行った時、ミアが「でも、これって偽物だよね」と反応した時に彼女に言って聞かせたこと。「たとえフェイクだとしても、作った人にとっては本物なんだ」。
ここで持ち上がるのは、本物であることだけがすべてではないということです。人間関係において、本物の家族であれば、万事解決なのか。本物の家族や友達だからこそできないこともあるから、こうしたサービスが現存しているわけですよね。僕がハッとしたのは、いろいろあって空中分解しかかったレンタル・ファミリーのコアメンバー4人、フィリップも含めたメンバー4人がとある人物の葬儀に参列して久しぶりに再会するところ。お寺の門をくぐるところをちょっと望遠気味で撮影しているんですが、血縁関係のない4人がまるで家族のように見えるんです。それから、ミアがフィリップと再会するところも良かったです。実際には父親ではないけれど、サービスから始まった人間関係が、サービスの外側へとせり出して、フィリップがミアにとってのモノンクル、適度な距離感で人生に彩りを与えてくれる親戚や近所のおじさんのようになる可能性を示唆していて、とても素敵でした。

もちろん、レンタル・ファミリーというサービスが危うさをはらんでいることは確かです。映画においては、終盤、サービス提供者が危険に晒されるようなものは、たとえ儲かる案件であっても断るというルールの変更がありました。擬似的な家族であるレンタル・ファミリーという会社そのものが家族を守るシステムを構築しようとしていることも見逃せません。

リアリティーの面で、ツッコミどころがあるのは重々承知していますが、それこそ映画なんて所詮はフェイクだと切り捨てるような作品ではまったくない。むしろ、Art Imitates Life。アートは人生を模倣する、であるとか、「嘘から出たまこと」という表現も連想させる、この複雑怪奇な社会を映す「鏡」として良くできた寓話のような作品です。遠目には普通に見える人だって、近づいてみれば、誰だってどこかおかしなところがあるもの。有名無名を問わず、老若男女を問わず、国籍を問わず、誰もが誰かを求めてこの社会を成している。そんなことを思わせてくれるHIKARI監督の会心作でした。
この曲は、柄本明演じる往年の映画俳優が、長らく帰らなかった故郷を訪れる旅路の中でかかっていました。誰が知るだろうか、僕が遠くへ行くかなんてこと。しかも、帰るべき場所、故郷をテーマとして透かせたこの選曲も粋でしたよ。
