FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 11月17日放送分
映画『ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』短評のDJ'sカット版です。

1906年に生まれ、1945年、39歳という短い生涯を殉教という形で終えたドイツ人牧師ディートリッヒ・ボンヘッファー。第二次大戦下、ナチスに教会が支配される中、迫害を受けるユダヤ人を救うため、平和を祈るのみならずスパイ活動に身を投じることになった彼の生きざまを描く伝記映画です。
監督・脚本・製作を兼務したのは、『ハドソン川の奇跡』や『博士と狂人』など、実話をベースにした物語に定評のある脚本家のトッド・コマーニキ。ボンヘッファーを演じたのは、バラエティ誌で「注目すべきヨーロッパの若手映画人10人」にも選ばれている実力派のヨナス・ダスラー。その他、『イングロリアス・バスターズ』のアウグスト・ディールなども出演しています。
僕は先週の水曜夜、アップリンク京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

さっきざっくりまとめた概要だけを見れば、この手の「ユダヤ人を救うヒーローの物語」は既視感があるという人も多いでしょう。ナチス政権下で自らの立場や生命を危険にさらしながらも人道的な活動をした人物は実際に一定数いたわけで、おそらく映画や小説になっていないケースもたくさんあるのだと思います。有名なところで言えば『シンドラーのリスト』があるし、10年前には『杉原千畝 スギハラチウネ』もありました。ナチスへの抵抗を描いたものなんて、『白バラの祈り』や『ワルキューレ』などなど、枚挙にいとまがありません。もちろん、今作も大別すればその系譜に入るわけですが、観れば新鮮な驚きと感動を得る作品になっていました。その理由を挙げることで今作の特徴を浮き彫りにできるでしょう。

まず最大の理由は、ボンヘッファーが学生や農夫のような市民でも外交官でも軍人でも医者でもなく、聖職者であった点です。そして、アメリカへの留学経験があること。幼い頃、第一次世界大戦に派兵されて亡くなった兄から託された聖書に夢中になった彼は、神学の道に邁進し、その優秀な成績を買われ、ニューヨークの名門ユニオン神学校でアフリカ系アメリカ人のコミュニティと親交を深めることで、長い長いキリスト教国としての歴史によって、ともすれば形骸化したカビ臭いドイツの教会システムとは違う、自由の国アメリカの姿を目の当たりにしました。一方、厳然たる黒人差別の実態に衝撃を受け、「ヨーロッパにはない」苛烈な差別の中で、黒人たちはジャズを楽しみ、ゴスペルを歌い、日常生活のあらゆるシーンで信仰を実践している姿は、ボンヘッファーに大きな衝撃を与えます。

ただ、歴史が証明しているように、差別や優生思想、不寛容というものは人間が世界中のあちこちで度々繰り返してきたことなわけで、ドイツに戻った彼は、ヒトラー率いるナチスが合法的な選挙を経てみるみる国民を操るようになるさまを目撃します。当初はボンヘッファーもその力を見くびっていましたが、人々は雪崩を打って全体主義へとなびいてしまいます。国力が一度落ちていたとことに、自分たちを鼓舞してくれる言葉に酔って熱狂した人もいれば、寄らば大樹の陰とばかりに権威や権力が生み出すトレンド的な価値観に「今はそういう風向きだから」と従属していった人もいる。その抗しがたい流れは、教会システムをもやすやすと飲み込み、聖職者たちはあっさりと聖書を放棄し、十字架の代わりに鉤十字が教会に据えられるにようになります。この一連のシーンが丁寧に描かれている映画を僕は知りません。人々を分け隔てなく包摂するはずの宗教家たちがいともたやすくその役割を放棄する様に、ボンヘッファーは忸怩たる思いを抱きます。組織化して一大権力と化していた教会システムにかねてより疑問と反感を抱き、「教会は神の家であり、人々のシェルターであるべきで、自分が神のごとく振る舞う人間のものではない」と帝国教会と名を変えた祈りの場所を後にします。そこからスパイ、果ては暗殺計画への加担、そして死へといたる流れはスクリーンで確認いただきたいところですが、ボンヘッファーのこのあたりからの行動の指針となるセリフを紹介しておきます。「暴走する車にひかれた犠牲者に包帯を巻いてやるだけでなく、車そのものを止めることこそ、牧師の仕事である」。そして、確かアメリカで耳にした言葉だったと思いますが「悪の前で沈黙することは悪である」ということも念頭にありました。これは遠い国の80年前の過去の話ではありません。日本も含めた多くの国で現在進行系で起きている現象、ドイツで虐殺されたユダヤの民の中のシオニストがガザで起こしていることなどなど、今を照らす映画にもなっています。

演出面で優れていたのは、幼少期の鮮やかな色と収容所に入れられてからのモノクロームのような色と光の調整。死へと確実に向かっている晩年のシーンと幼少期から時系列に進んでいく様子を行きつ戻りつする編集は、ずんずんと後戻りできない状況に陥った切迫感を端的に表していました。史実からは逸脱しているとも言われますが、処刑直前に彼が執り行う最後の晩餐さながらの聖餐式(せいさんしき)という儀式には、ボンヘッファーがいかに純粋にキリスト者としてその生を全うしようとしているのか、愛を実践しているのかが強調される見事なシーンでした。そして、ヒトラーはもちろん、ルイ・アームストロングやチャーチルなどをさり気なくも的確に登場させていることにも目を見張るし、ナチスを絶対悪にするのは当然として、お隣の中立国スイスや連合国側をきっぱり善として描かず、安易な勧善懲悪の構図に落とし込まなかったことも印象的でした。

事実として、ディートリッヒ・ボンヘッファーは、連合国が勝利して収容所の人々が解放されるたった2週間前に亡くなりました。悲しいし、ヘビーな題材に鑑賞を躊躇する方もいるやもしれませんが、視覚的に残酷な描写は控えられていますし、巧みな演出でみるみる引き込まれます。僕も不勉強なことに知らなかったボンヘッファーですが、予備知識も思ったほど必要ないと言っておきたい。容赦なく引き込まれ、僕たちひとりひとりが能動的に考え葛藤し、その先に光を見出すべき作品です。あのラストシーンのように。
主題歌は、アメリカの一大ジャンル、クリスチャン・ミュージックのスターのひとりでグラミー受賞経験もあるローレン・デイグルが歌っていました。
