FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 7月14日放送分
映画『国宝』短評のDJ'sカット版です。

1964年、長崎。料亭で暴力団の新年会が開かれていました。組長の息子である15歳の喜久雄は、兄貴分の青年と一緒に、余興として歌舞伎を披露します。それを見ていたのが、巡業中で宴に招かれていた上方歌舞伎の名門の当主である花井半二郎。暴力団同士の抗争で父親を亡くした喜久雄を、半二郎は大阪の自宅に引き入れ、跡取り息子で同い年の俊介と一緒に稽古をさせるようになります。喜久雄と俊介は兄弟のようであり、親友でもあり、ライバルでもありました。芸に青春を捧げたふたりは、やがて歌舞伎の血筋という問題と直面することになります。
原作は吉田修一の同名小説で、監督は『悪人』『怒り』に続いてこれが3度目の吉田修一作品の映画化となる李相日。脚本は、『サマーウォーズ』や『八日目の蝉』で知られる奥寺佐渡子。喜久雄を吉沢亮、俊介を横浜流星が演じた他、半二郎には渡辺謙、その妻には寺島しのぶが扮しました。他にも、高畑充希、森七菜、三浦貴大、田中泯、永瀬正敏などが出演しています。
僕は先週木曜日の夕方にTOHOシネマズ梅田で鑑賞してきました。6月6日の公開から1ヶ月以上経っていますが、3番スクリーンと大きめで、なおかつ平日夕方にも関わらず、老若男女、僕みたいなひとり客から、女友達同士、そしてデートというカップルも含め、劇場はかなり盛り上がっていました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
強引に要約すれば、こういうことです。伝統芸能における血筋と芸のせめぎあいの中で翻弄される喜久雄と俊介の人生。1964年からほぼ現代まで描かれる半世紀以上に渡るストーリーで、原作は800ページあります。映画も3時間弱と尺は長いのですが、それでも結構端折っていかないといけないという中、この作品はそれぞれの時代のどんな場面を見せるかというところにはっきりと特徴があります。それは、普通なら見せ場になるはずの場面をあえて見せないこと。プロローグからそうです。暴力団の抗争があって、喜久雄が兄貴分と一緒に父親の仇討ちに踏み出したところで、そのシーンを終えます。あっさりと1年後にジャンプするんです。長大な小説を原作にした映画で失敗するケースにありがちなのは、わかりやすく目立つ盛り上がるシーンばかりを並べた結果、ただのダイジェスト動画になってしまうこと。派手なアクションが起きる場面というのは魅力だし脚本家も監督のその魅力に流されてしまうものだと思いますが、本作はそんな誘惑を断ち切っているんです。当初は原作が長いので配信ものの連ドラにするという構想もあったようですが、李相日監督はスクリーンで観てもらいたいからと映画にこだわりました。もし連ドラにしていたら、さっきの敵討ちの場面も、たったふたりの若者が敵の事務所にどう踏み込んだか丁寧に描いていた可能性があります。でも、今作ではそうしなかった。じゃあ、その結果を観客はどう知るのか。1年後の場面でさりげないセリフで示すにとどめているんです。だから、僕たち観客は想像するしかありません。この想像の余地が随所に用意されていることで、かえって僕たちは目が離せなくなるし、セリフが聴き逃がせなくなる。前のめりになるんです。
もうひとつ例を挙げるなら、喜久雄と俊介の師匠、渡辺謙演じる半二郎ですが、ふたりに稽古をつける様子は描かれるものの、彼が舞台でふたりに所作を教え込む女形を演じる場面はひとつもありません。もちろん、見せたって良いはずなんです。渡辺謙は、極めて重要な役だし、今作のテーマである喜久雄と俊介の芸と血筋の拮抗に対して決定権を持つ存在ですから。ただ、それは見せない。この場合は、物語的な焦点化と言って良いと思いますが、ピントをあくまで喜久雄と俊介に絞り込んでいることの表れでしょう。文字通りの焦点化は、映像にもきっちり表れていました。要所でアップを使って、手前や奥をぼかす、専門的な用語で言えば被写界深度の浅い映像を使うことで、物語だけでなく映像面でもメリハリを付けつつ、それが映像的な見得を切る効果にもつながっています。これは『アデル、ブルーは熱い色』などで知られるチュニジアの撮影監督ソフィアン・エル・ファニの素晴らしい仕事です。
喜久雄が後半に「景色を探しているんだ」というセリフがありましたね。それは芸を極めた役者が目にする景色ですが、この作品ではその舞台裏を描いているわけで、文字通り舞台の裏、袖、上、下、楽屋とあらゆるところからの景色が出てきます。これがまた見どころ。歌舞伎を実際に見に行っても見えない、というより、本来は隠されるべき場所や視点が出てくるわけですから、珍しいし、興味深い。そして、当然ながら、ドタバタしていたり、緊張していたり、衣装をチェンジするところなんていうのは美しくはありません。隠すところというのは、言い方を変えれば恥部でもあるわけですから。もっと言えば、歌舞伎役者たちの実人生だって、隠すべきところかもしれません。過酷な稽古、プレッシャーから逃れるために、酒や遊びに走るばかりか、時に逃げ出したり、スキャンダルを起こしたりするところもあります。実際に、喜久雄と俊介も、天国と地獄の両方を経験します。こうした役者の苦悩というのは、あるあるでもあるわけですが、僕が感心したのは、その実人生の節目と演じる歌舞伎の演目をリンクさせているところです。歌舞伎の演目のチョイスにしっかり意味が込められているので、主人公たちの生き様が舞台での表現に滲むどころか溢れ出す凄みがこちらに迫ってくるんです。これは、脚本、演出、撮影、その他美術や照明も含めた、小説では出せない映画にしかできない迫力であり、映画化の成果です。正真正銘の歌舞伎映画として、歌舞伎から逃げていないこともあっぱれです。同時に、僕みたいな歌舞伎の門外漢からすれば、歌舞伎のコンピレーションを味わえるのも嬉しかったですよ。そこは、あくまでハイライトですけどね。だから、これを機に本物の歌舞伎を観に行きたくなる人が出てくるのも頷けます。
キャストがこの作品にかけた情熱、意気込み、苦労、時間というのも称賛しておかねばなりません。吉沢亮、横浜流星は見事の一言ですよ。美しかったです。同時に、美というものに自分の命を捧げる強さ、おぞましさ、傲慢さも伝わりました。渡辺謙も気品とやさしさと迫力がありました。そして、僕が凄みを感じたのは、田中泯です。女型の人間国宝を演じていました。登場する場面は決して多くないのに、喜久雄と俊介に与えた影響がいかほどのものだったか、言葉遣いと表情で伝えてみせるあの存在感たるや!
なんて具合に絶賛しておりますし、まだまだいくらでも良かったところを挙げて話せます。今年の邦画を代表するヒット作にして傑作と言えるでしょう。ただ、僕には気になるところもありました。物語的に喜久雄と俊介に焦点を合わせたことで、たとえば例の少年喜久雄の兄貴分の人生や思いはバッサリ切られていますし、同じように刈り込まれたキャラクターは他にもいる。それは映画化の宿命だし、そこが気になるなら、小説という別の媒体で触れれば良いというのもわかります。ただし、僕は少なからず出てくる女性たちの、どう考えたってそれぞれに複雑な感情がオミットされているのは、こちらが複雑な気分でした。喜久雄や俊介が目指す美しさのためながら、あるいは血というものを維持するためなら、他のあらゆるものが犠牲になりかねないという醜さには、あと一歩ずずいと踏み込んでほしかった。家父長制、封建制のシーラカンス的な極みとも言える世界において、女性たちはそれぞれの立場でそれぞれの多様な苦しみ悲しみがありました。そこに焦点を当てれば、もう一本別の映画になるくらいのモチーフだということは百も承知で、終盤、喜久雄にある女性が投げかける恨み節だけでは僕はかなりモヤモヤしたし、わだかまるものが残りました。伝統と人権というレベルの話でもあるので、間違っても男尊女卑の美化につながるような解釈を拒むような楔は打ってほしかったです。
とはいえ、映画そのものが現状の日本映画トップレベルの表現であることは疑いの余地なし! 李相日監督が映画館での上映にこだわったんです。あなたも映画館でご覧ください。
さ〜て、次回、7月21日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『スーパーマン』です。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』などで知られるジェームズ・ガン監督が、紆余曲折を経てマーヴェルからDCへ移籍して、あらゆるスーパーヒーローの原点とも言えるスーパーマンに取り組むなんて、これは前のめりにならざるをえません。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!





