FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 5月5日放送分
映画『異端者の家』短評のDJ'sカット版です。

宣教師として活動する20代の若きシスター、パクストンとバーンズは、訪問先リストにあった町外れの一軒家を訪れます。出てきたのは、気の良さそうな中年男性のリード。妻が奥でブルーベリーパイを焼いているところだから、どうぞご一緒に。ふたりが応接間で布教を始めると、リードは「どの宗教も徹底的に調べたけれど、真実とは思えないんだ」と、シスターたちに挑戦的な質問をぶつけてきます。不穏な雰囲気に気味が悪くなったふたりは、リードが妻の様子を見に行った隙に、家を出ようとするものの、玄関の扉は鍵が開かず、不思議なことに携帯電話も通じません。
監督と脚本は、『クワイエット・プレイス』で脚本を務めていたコンビのスコット・ベックとブライアン・ウッズ。頭脳明晰で人当たりは良いが不気味な男リードを、『ノッティングヒルの恋人』や『ラブ・アクチュアリー』など、ラブコメディで鳴らしてきたヒュー・グラントが演じています。製作は、2012年の設立以来、オスカー常連となっているスタジオA24です。
僕は先週木曜日の夜にMOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
主人公がどこかに閉じ込められて、そこから脱出するというプロットって、ありますよね。その中でも、『ミザリー』とか『ルーム』のような、人間の心理的な強さを恐怖の核に据えたようなサイコ・スリラー的な展開がこの映画のベースにあります。『ミザリー』であれば行き過ぎたファン心理であり、『ルーム』であれば歪んだ支配欲があって、それがどう解消されるのか、物理的に、そして心理的にも、主人公はそこから脱出できるのか否かが観客の関心の的となるわけですね。本作もそういった先行作品の焼き直しになる可能性はありました。なぜかと言えば、ベックとウッズのコンビがこの脚本を書いて実際に動き出そうとした時、A24以外にも「一緒にやろう」と手を挙げたスタジオがあったそうです。ところが、そこでそのスタジオが出した条件は、「宗教に関するアイデアと対話はすべて削除してほしい」というものだったんですね。ベックとウッズはそれを当然拒否するわけですが、もしそこで首を縦に振っていたら、この作品の面白さは半減、いや、もっと減っていたことでしょう。なぜなら、この作品は、ヒュー・グラント演じるリードという中年男性とふたりの宣教師が交わすやり取りにこそ見応えがあるからです。宗教的な要素をカットしてくれと言ったスタジオにしてみれば、この物語がモチーフにしている現実の宗教、モルモン教への配慮というか、そこからの反発を恐れたのだろうと思います。実際に、モルモン教、当事者が末日聖徒イエス・キリスト教会と呼ぶ宗教団体からの批判はある程度あったようですが、映画を観ればわかるように、決してモルモン教そのものを批判したり揶揄したりしているわけではなく、むしろ、モルモン教を鼻で笑ったり見下したりする風潮を批判している側面の方が強いんですよね。

そして、やがては男性が女性を相手に自分の知識や経験をひけらかすマンスプレイニングを痛烈に風刺する要素が強いので、僕もそろそろ一歩間違えばそんな鬱陶しいどころかはっきり害悪と取られかねない立場や年齢に入ってきているので、そこそこ居心地が悪いです。そして、ネットに転がっているような陰謀論・都市伝説の類に興味関心を抱いてしまい、視野がとても狭くなっている人も、観ていてお尻がむずむずするような感覚に陥るはずです。この映画『異端者の家』がユニークなのは、血しぶきが飛ぶようなおぞましさを押し出すホラーではないところにあります。血も出ると言えば出るんですが、それよりも何よりも、知的・哲学的な対話とポップ・カルチャーを組み合わせた会話の妙を楽しみながら、3人のキャラクターの中に、観客が自分にも似た要素があるかもしれないと突きつけられる心理的なパンチにこそ独自性があるし、それがこの映画を観終わってからも忘れられなくする要因です。

実際、ヒュー・グラント演じるリードは、ふたりの女性に触れるようなこともありません。ただただ、会話でふたりを追い詰め、それをもって楽しそうにしている。しかも、それが、ボードゲームやポップソング、そして陰謀論めいた宗教の話なので、観客も身近だし引き込まれるんですよね。オリジナリティとは? コピー、あるいは、パクリと言われる作品や考え方とは? 嘘と本当が絶妙にブレンドされた知的な問答が、ふたりを、そして観客をどんどん恐怖のどん底へと落とし込んでいく。基本的には、リードは何も手を下しません。ふたりがある種自発的に恐怖の森の深みへと入っていかざるを得なくなるのもユニークでした。

ただし、この作品、下手をすると、映画的な面白さに欠ける可能性もあったはずです。だって、会話がメインだし、密室だし、身体的な接触がほぼないというレベルで役者のアクションが少ないわけですから。そこで重要になるのが、邦題にもなっている「家」の存在。家はもう4人目のキャラクターと言って良いでしょう。それだけに、デザインと作り込みがすごい。考えてみると、スタートは、当然屋外なわけで、ファーストカットは雄大な山の景色。それをバックにふたりの宣教師がコンドームのサイズとかものすごく卑俗な話をしているんですよね。そこなんかは、タランティーノ的な会話というか、いきなりの愉快な脱線で観客を引き込む作戦であるかのように見えて、そんな会話もやがて訪れる展開とリンクしていて巧いんです。開けた場所から、閉じた場所へ。明るい場所から暗い場所へ。高くそびえる山から、奈落の底へ。こうした空間演出の設計にこそ、この映画のビジュアルのダイナミズムがあって、外からは普通に見える家の内側にはとんでもない空間が広がっているということそのものも、主であるリードという人の家としてふさわしいんですよね。予告編にもチラッと出てきますが、シスター・パクストンがさまよい歩いている様子が、家の模型の中で展開するというようなマジカルな演出も含め、ベックとウッズ監督コンビはかなりの手練れですよ。さすがは、地元で独立系映画館を経営しているだけあって、こうした演劇的な脚本でも、あくまで映画としてどう見せるかということにこだわって、成功しています。

特に後半の展開と設定には、ジャンル映画的なお約束と納得しがたいおぞましさもありますが、最後の最後にまで知的な仕掛けが施してあって、あんなに怖い思いをしたのに、また見直したくなるし、誰かとネタバレ有りでしっかり語りたくなる見事な作品です。ホラーやスリラーが苦手という人にも、恐怖映画の入門として『異端者の家』の扉をノックしてみてほしいところです。それぐらい、このジャンルのあり方、語り口に新しい風を吹き込んでいる意欲作だと僕は捉えています。
さ〜て、次回、5月12日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『来し方行く末』です。葬式で披露される弔事というやつ。亡くなった人の生き様を総括するような文章ですが、僕も書いたことないけれど、どう切り出していいやら、迷うだろうなと思います。これは、そんな弔事を代筆するという仕事にまつわる物語。中国の映画は久しぶりで楽しみだ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!
