FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 4月28日放送分
映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』短評のDJ'sカット版です。

周囲から見れば「冴えない」と言われそうな大学生活を送る小西徹。学内でたったひとりの友達と言える山根や、銭湯のバイト仲間であるさっちゃんと、それなりに彼なりに楽しくやっていました。ある日、彼は大教室での授業中、お団子頭の桜田花の姿に心を奪われ、思い切って声をかけます。すると、小西と花の間には不思議な偶然がいくつも重なり、ふたりは意気投合するのですが…
お笑いコンビ「ジャルジャル」の福徳秀介が2020年に発表した同名小説を、『勝手にふるえてろ』や『私をくいとめて』の大九明子監督が自ら脚本にしました。主人公の小西徹を萩原利久、桜田花を河合優実が演じた他、小西のバイト仲間さっちゃんには伊東蒼、学校の友達山根には黒崎煌代という若手が扮しました。さらに、安齋肇、古田新太、松本穂香なども出演しています。小西と花が通うのは関西大学という設定ですが、実際に関大が寛大にもロケに全面協力をしています。
僕は先週金曜日、公開初日の昼にMOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
『勝手にふるえてろ』なんかも典型でしたが、現代を生きる女性の孤独感を描くことに定評のある大九監督が初めて男性を主人公にしたことにまず興味を覚えました。監督はインタビューで原作の印象をこう語っています。「見えているものを書いている字コンテみたいな小説」。つまりは、作者の福徳秀介が小西徹という主人公の目線を借りてずっと書いているわけです。これまで監督が手掛けてきた映画とは視点の性別が違うんですよね。大九さんは脚本も自分で書いて完成した映画を観て、僕はなるほどこういうことかと膝を打ちました。確かに、主人公の小西も孤独なキャラクターです。周囲に容易に溶け込んでいくタイプではなく、大学でも友達はひとりしかいない。でも、それに慣れているので、特別に苦にしているわけでもなく、周囲を観察しながら、自分なりの生き方、社会での身の置き方を模索し続けている人です。大学のマジョリティがキャンパスライフをキャッキャと謳歌する場所が休み時間の中庭の人工芝に寝転ぶことに象徴されていたのに対し、小西はそれをはっきりと意識しながら、自分はここだと、学内の建物の屋上にある庭園で土の上に寝転ぶことを選択しています。と分析している僕自身も小西的な部分があったのでよくわかりますが、周囲を観察して分析して自分と比較しているだけあって、たぶんにナルシスティックなところがある。孤独だからこそ他者の目を気にするのか、他者の目を気にする余り孤独になってしまうのか、あるいは両方の相乗効果なのかは難しいところですが、とにかく結果として、悪く言えば独りよがりで自惚れ屋になりかねない存在なんですね。大九監督はそこをしっかりと見抜き、小西というキャラクターに対して時に女性として腹立たしくもなった感情を、花とさっちゃんというふたりの女性たちに託しています。つまり、監督が脚本を書くことで、女性キャラクターふたりが大いに膨らんで、恋愛映画として立体的になっているし厚みを増しているんです。それがとても良いバランスになっていました。

特に前半から中盤にかけて、小西と花が知り合って仲良くなっていくところなんて、もう最高です。今まで知らなかった人に惹かれて、話をしてみたら共有できる体験や感覚があって高揚して、街をるんるん歩いていたらばったり会って離れがたくなって、相手の好きなもので自分の知らないものがあったら一目散に自分も体験したくなる。若者の恋模様が、そのまっしぐらな感じ、おかしみも含めて見事に表現されていました。ただ、ふたりが共有することになるのは楽しいことばかりではなくて、そこまで描かれていなかった、それぞれの喪失でもあります。ふたりともに、まだ乗り越える道半ばの喪失、心に空いた穴というのがあって、そこを互いに覗き合うことで関係はより分かち難くなっていくんですが、物語はそこから思いも寄らない展開を見せていきます。

ただ、喪失とか心の穴とかっていうのは、実は冒頭からずっと漂っていたことではあるんですよね。小西が日傘を手放さないこと。花のお団子ヘア。そういう目印だけでなく、この映画は大九監督の映画的な達者な演出で喪失を表現しまくっています。そこにこそ、この作品の評価すべきポイントがあります。晴れているのに聞こえる雨の音。突然繰り出される画面分割。ザクザクと時折不自然なリズムを刻む編集。ビスタサイズからスタンダードサイズへの画面サイズの変更。急にふたりだけ世界から浮き上がったようなライティングの挿入。いるはずのない人を同じ画面に映すショット。そういった映画的なテクニックに組み合わされるのが、水と音のモチーフ。テレビのボリューム。銭湯の風呂の中。バイト終わりに鍵をいれるポストの音。そして、さっちゃんが自分もギターを引いて大学でバンドをやっている身として最高だと言ってはばからないスピッツの『初恋クレイジー』。関西大学博物館で流れる展示物の音声。水槽に浮かぶクラゲ。さっちゃんの通う同志社大学の近くの鴨川デルタの飛び石。大九監督は、映画だからこそできるテクニックと今言ったようなモチーフを巧みに撚り合わせることで、そんじょそこらの青春映画、恋愛映画では到達できない心模様を描くところまで達しています。話題となっている長台詞も含めて、確かにこの映画には普通テレビドラマでは出てこない、いや、劇映画でもあまり出てこないような手法がいくつも駆使されているので、人によっては戸惑ったり、唐突に感じるかも知れないんだけれど、僕は劇場のスクリーンに目を凝らして耳を澄ませながら、「今僕は確かに映画を観ている」という興奮状態に陥りました。考えてみてください。ああいう映画的表現がなかったら、どれだけ映画としてのっぺりとして無個性でありふれたものになるか。この映画はチャプター分けがされていて、季節が少しずつ移ろうとともに、雨の名前がそれぞれのチャプターの名前になっていますね。タイトルがどのタイミングでどんな風に出るのか。それも含めて、大九監督が繰り出す手法にはどれも意味があるってこと。その瞬間には違和感があっても、映画を後で思い出すとしっくり感じられたりすること。それも含めての豊かな映画体験です。

喪失を描いた若者の恋愛モチーフの青春映画なんて、これまで何本撮られてきたことか。多かれ少なかれ、喪失は誰にでもあります。恋愛もそうでしょう。友情もそう。でも、よく言えば普遍的で、悪く言えば凡庸な物語になりかねないこのストーリーを、とんでもなく高いレベルに持ち上げた監督にはまたしてもシャッポを脱がされました。考えてみれば、小西と花は、ある瞬間まで一度も触れ合っていませんでした。僕はそこは「なんだかな」と思って観ていたんです。性を描くことから逃げているのか、なんて思っていました。でも、そこも大九監督の計算です。ふたりはその喪失感のピークから一気にまた恋に落ちる。いや、互いが必要となるその瞬間にこそ、触れ合うんですね。人が人を必要とする理由が、あれだけの台詞を使いながら、実は言葉でなく行動で示された、これも純映画的な表現にちゃんと落とし込んでいることに僕は興奮を隠せません。えらいもんを観ました。
映画を見れば、この曲でイントロに乗っかって喋ってはいけない気分になります。イントロがすごいって、さっちゃんが力説していましたからね。
