FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月19日放送分
映画『本心』短評のDJ'sカット版です。

自宅近くの工場で働く朔也は、老いた母の秋子とふたり暮らし。ある日、仕事中に秋子から「大切な話をしたい」と言われた朔也は、帰りが遅くなって豪雨となったその晩、濁流の迫る川べりにいた秋子を助けようとして昏睡状態となります。それから1年。目を覚ました彼は、母の秋子が自由死を選択して亡くなったと知らされます。違和感を覚えた朔也は、母の本心を知るため、ヴァーチャル・フィギュアVFという技術を使って秋子を仮想空間上に蘇らせつつ、自分と同年代で秋子と年の離れた親友だったという三好という女性とコンタクトを取るのですが…
原作は、最近映画化が相次ぐ平野啓一郎の同名小説です。監督と脚本は、『舟を編む』の石井裕也。朔也を演じたのは、石井監督とのタッグがこれで9回目となる池松壮亮。母の秋子を田中裕子、その親友の三好を三吉彩花が演じた他、妻夫木聡、綾野剛、田中泯、仲野太賀といった豪華キャストが集結しています。
僕は先週金曜日の朝、TOHOシネマズ二条で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
偶然にも、先日『スオミの話をしよう』を俎上に載せた際に、平野啓一郎の名前を出して、彼の提唱する「分人」という考え方のことを話しました。人は「あの人はこういう人」と簡単に定義できるものではなく、社会的動物である以上、こういう局面ではこういう言動を取るし、ああいうタイミングではああいう言動をするという風に、対する人や場面によって様々な顔があるもので、人というのはその総合体なのであるというような考え方です。それが平野啓一郎の創作のベースにあるということなんです。その意味では、本心というものも、ひとつ確固たるものがあるとは限らないし、むしろ不自然ですらあるということになりますが、そんなことを前提として考えながら鑑賞してきました。

モチーフとしては、AIの登場が社会と個人、そして働き方や生き方にどんな影響をもたらすのかという問いです。原作では2040年ぐらいの日本を想定した近未来SFになっていたものが、今回の映画化では、去年がChat GPT元年ということを踏まえつつ、なんと来年、2025年ぐらいに設定してあるんです。いや、まさかそんなに普及のスピードは早くないだろうと思いつつ、見ていると、「あ、これは確実に僕たちの今の日本社会と地続きだ」と思えるんです。さらに、朔也が母親を助けようとして重症を負い、1年間眠り続けていたというのが効果的で、友人からは「浦島太郎みたいな顔」って言われていましたけど、まさにその通りなんですよ。実際に変化が早いこの社会において、1年の間に起きる変化は大きくて、たとえば、工場での仕事をロボットに奪われたことによって彼が取り組むリアル・アバターという仕事。カメラを持った作業員が依頼者の代わりに行動するんです。死期が近い老人の代わりに思い出の地へ行って夕陽を見せてあげるなんてのはロマンティックだし、なるほどと思うんだけど、買い物をしてくるなんていうのは、もうデリバリーサービスの延長線にあるし、スタッフが消費者の理不尽とも言えるような評価の対象になるのだって同じです。働き方の多様化と言えば聞こえは良いけれど、大多数の人にとっては格差はますます固定化されている状態は容易に想像できます。仮想空間もさらに奥行きが出て賑わっている。パッと見ただけでは今との違いがそうわからないけれど、ネット空間も含めて、確実に変化が起きているというのは、かなり現実味があります。今でこそワイヤレスのイヤホンで歩きながら電話で誰かと話している人ってよく見ますけど、ちょっと前までギョッとしたでしょ? あれにも似た感じ。

そんな中で、母親を失った朔也は、彼女のヴァーチャル・フィギュアを作るということになるわけですが、これだって、何もロボットが出てくるわけではないんです。Appleが既に発売しているゴーグルApple Vision Proみたいなもので、ゴーグルをした時に、その中に母の秋子さんが現れるシステムです。生前のデジタルとアナログのありとあらゆる情報がそこに反映されていて、会話をすればするほど、その精度が上がって「より彼女らしく」なります。問題はこの「彼女らしさ」とは何かということなんですよ。思い出が美化されがちなように、誰かについての記憶も思い出す人から見たものでないし、ましてやそれが愛する家族であれば、自分にとって居心地の良いものに補正されてしまうもの。でも、データを増やせば増やすほど、この場合だと秋子に近づけることができると説明された朔也は、母親の親友だった三好にメールやライン、写真なんかのデータを提供してもらいます。しかも、ゴーグルを付ければ、その三好さんも含めて死んだ母親に会って話をし、共通体験を積み上げることができるわけだから、まるでもう仮想空間に彼女が生まれ変わったよう。田中裕子は生前の姿とヴァーチャル・フィギュアとしての姿の両方を演じているわけですが、その際どい違いを見事に表現するパフォーマンスでした。朔也にしてみれば、母親が生前に「大切な話がしたい」と言っていたのはなんのことだったのかを知りたいし、自由死と呼ばれる制度を本当に利用したいと思っていたのかなど、聞きそびれたままになっていた本音を知りたいわけですが、求めていたのとは違うトピックが出てきたりして動揺したその先についにたどり着いた本丸のトピックでは思いも寄らない言葉が出てきて、僕はもう落涙でした。

というような話は、この映画のひとつのパートでしか実はありません。ヴァーチャル・フィギュア制作会社の人間も、ヴァーチャル・フィギュアそのものも、秋子の親友だったという若い女性三好も、後半の重要キャラになるアバターデザイナーのイフィーも、みんなそれぞれに示唆的な問いかけをしてきます。朔也はそのたびごとに、自分の過去と現在地、その価値観と生き方について考えを巡らせることになるし、それは僕たちもそう。格差、カスハラ、差別主義、ネットでの動画の拡散などなど、石井裕也監督は、豊富なトピックをなんとか整理しながら、僕たちがもはや陥りかけている実存的な危機と、社会における人間性のぐらつきをハイレベルな説得力で突きつけてきます。

平野啓一郎の原作を読んで映画化すべきだと石井裕也監督に企画を持ち込んだ主演の池松壮亮の見通しは正しかったと言うべきだし、石井監督は日本映画の限られた予算の中で、それこそ嘘くさかったりチープに見えて台無しになりかねない物語を現状の最適解で映画にできていると僕は思います。シンプルな技法なんだけど、ショットを切り替えるだけで、さっきいたはずの人の姿が見えなくなったり、逆に気づけばそこに人がいるというような編集技法も多用しながら、石井監督が強調していたのは、僕たちを自分たらしめている身体と心、ここで問題となっている本心なるものの不確かさでした。
たくさんの語り甲斐のあるモチーフが出てくる作品ですが、実は最初から最後まで、意外にも広い意味でのラブ・ストーリーとして貫かれているのが、僕にとってはまた胸を打つポイントでした。ここ10年ほどの間にも、『ブレードランナー2049』『her/世界でひとつの彼女』や最近だと『徒花-ADABANA-』など、AIやクローンの存在から「人間とは何か」を問うていく優れた作品がありましたが、その系譜に連なる佳作です。