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第1667回 「時を超える観音——岩倉大雲寺、335年ぶりの秘仏開帳」


 
今年の1月末に京都のフィールドワーク・ワークショップで案内した京都岩倉の大雲寺。
 この寺の十一面観世音菩薩立像は、長らく絶対秘仏でしたが、現在、335年ぶりにご開帳されています。(令和7年10月17日―令和8年4月17日)
 古書によれば、この像は聖武天皇の玉体を映したものとされ、行基が「一刀三礼」の作法で造像したものです。大雲寺が伝えるところによると、奈良の長谷寺の観音像と一木を共にし、姿かたちも同じく、一木造りで製作されたとされます。
 長らく御所に安置されていたものを藤原時平が拝領し、その後、藤原明子(清和天皇の母)が勅により大雲寺に移設・安置したと記録されています。
 ご開帳は残りわずか一ヶ月ほどで、次のご開帳は60年後の予定です。
 ここに紹介している写真は、大雲寺の阿闍梨の許可をいただき、ピンホール写真で撮影したものです。
 特別な照明器具は使わず、仏様の前に三脚を立てさせていただき、室内の自然光で20分ほど露光して撮影しました。
 心配だったのは、ピンホール写真にはファインダーがないため、どこまで写っているかは勘に頼るしかないことです。シャッターも露出計もなく、0.18mmの針穴を通る光をフィルムに感光させるだけで、露光時間の判断も、経験と勘によるほかありません。しかも一度きりの撮影。どう写っているかは、現像が上がるまでわかりません。
 そして、もしダメだったなら、次は60年後。当然ながら、私は生きていません。
 まさに一期一会。結果的に、うまく写っているかどうかという客観的な判断はもはや関係なく、その時、その場の時空の中で最善を果たすという、一度きりの真剣な"おつとめ"でした。
 20分のあいだ、じっと息を殺して待っているだけで、仏の前では、時間の長さをまったく感じませんでした。一時間でも二時間でも、その場でじっと佇んでいられるでしょう。なにせ335年ぶりのご開帳であり、現実の時間を超えた時間が、そこには流れているのです。
 岩倉という場所の特別さは、その名のとおり古代の「磐座(いわくら)」祭祀の名残を伝える場所であり、京都において古代と中世をつなぐ結節点となっていることです。
 10世紀、岩倉の地に大雲寺が築かれた際、磐座祭祀はその境内に取り込まれ、ほぼ同じタイミングでこの秘仏が安置されました。この秘仏は、正真正銘、古代と中世のつなぎ目に位置しているのです。
 大雲寺の創建のきっかけは、971年に比叡山延暦寺で法会があった時、多くの公卿らがこの地から五色の霊雲の立ち昇るのを見たことによります。
 この時、中納言の藤原文範が山を下り、霊雲の立った場所(岩倉)に至ると、石座明神が憑いた老尼と出逢い、この地が観音浄土であると告げられました。このことが天皇の耳に入り、藤原文範によって創建されたのが大雲寺です。
 藤原文範は紫式部の曽祖父(式部の母の祖父)にあたります。
 そして、この地が観音浄土であるとされたことから、行基作とされる十一面観世音菩薩立像が大雲寺に安置されることになりました。
 十一面観世音菩薩立像は、奈良の長谷寺の観音像と同じく、方形の「大磐石蓋(だいばんじゃくがい)」と呼ばれる岩の上に立っており、磐座に降臨した神のようでもあります。
 この十一面観世音菩薩立像は、通常の観音像と異なり、右手に数珠とともに地蔵菩薩が持つような錫杖(しゃくじょう)を携えています。
 これは、地蔵菩薩と同じく自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他には見られない独特の形式です。

「心の病と、修験の験力」

 源氏物語で、光源氏の最愛の妻・紫の上が少女だった頃、「わらわやみ」を患った光源氏が、治療の加持祈祷を受けるために大雲寺を訪れた時に、二人は出逢いました。
 光源氏には数多くの女性が関わっていましたが、なかでも特に重要なのが紫の上と明石の君です。
 この二人は、光源氏が精神的な危機に陥った時に出逢った女性という点で共通しています。
 明石の君は、光源氏が京都での政争に敗れ、都落ちというかたちで須磨・明石に流れた時に出逢いました。人生のどん底で明石を訪れたことを機に、光源氏は復活します。そして明石の君は光源氏との間に明石の姫君を産み、その姫君が東宮(皇太子)に嫁いだことで、次の天皇に光源氏の血筋が受け継がれます。源氏物語後半の宇治十帖は、この明石の姫君の子供たちが主役です。
 一方、光源氏が逢瀬を重ねた夕顔が六条御息所の怨霊によって光源氏の目の前で亡くなり、傷心のまま訪れた岩倉で、光源氏は幼い紫の上と出逢いました。
 その当時、光源氏は、亡き母の生き写しのような継母・藤壺への恋慕に苦しんでいましたが、紫の上は藤壺と瓜二つでした。後にわかったことですが、紫の上は藤壺の兄・兵部卿宮の娘であり、二人は血縁だったのです。
 光源氏は幼い紫の上を略奪同然に強引に引き取り、理想の女性に育て上げて、生涯愛し続けました。ただ悲しいことに、紫の上には子が生まれず、古代の巫女のように自己犠牲的な生涯を終えます。
 この運命の女性、紫の上と光源氏が出逢った場所が岩倉です。
 そして、その時の光源氏の精神状態は尋常ではありませんでした。
 源氏物語の中で、光源氏は「わらわやみ」に陥っていたと述べられています。
 「わらわやみ」についての解釈はさまざまあり、マラリアという説が専門家の間で通説になっていますが、今日の病名で整理してしまうと、大切なものを見落とす恐れがあります。
 重要なのはその症状です。マラリアは重症化すると、原虫に感染した赤血球が脳の微細な血管に影響を与えて詰まらせ、精神的な異常や錯乱、すなわち「気がふれる」ような状態を引き起こすことがあります。
 具体的には、意識が混濁して時間・場所・人の認識ができなくなる、実際にはないものが見える、支離滅裂な発言をする、昏睡状態に陥るといった症状です。
 こうした症状は、心の病においても生じることがあります。
 「わらわやみ」に陥っていた時期の光源氏は、夕顔が六条御息所の祟りによって亡くなったショックで寝込んでおり、現代でいう心の病の症状を呈していたのではないかと私は想像します。
 というのも、岩倉の大雲寺は、今もそうですが、紫式部が生きていた時代も、心の病の治療と深く関わりのある場所だったからです。
 大雲寺に隣接する場所には冷泉天皇の皇后だった昌子内親王の御陵が築かれていますが、冷泉天皇は在位わずか2年(967―969年)で譲位しました。その理由は心の病だったとされます。夫の病からの回復を願ってか、昌子内親王は岩倉の大雲寺に通い続け、この場所に観音院を創建しています。
 大雲寺の十一面観音像が手に持つ錫杖は、修験者を象徴する持ち物でもあります。
 修験とは、日本独自の実践宗教です。
 「山」という他界に身を投じ、過酷な修行を通じて「験力(げんりき)」という霊的なパワーを獲得することを目指します。この修行によって得た験力を、里に降りて加持祈祷という形で人々に還元しました。
 「加持祈祷」とは、仏の慈悲の力が人々に注がれ(加)、人々がそれをしっかりと受け止める(持)ことを指しますが、病気平癒・安産・雨乞い・怨霊退散など、現実世界の具体的な問題を解決するための「実利的な儀式」です。
 この加持祈祷を「実際に効くもの」にするためには、祈祷師自身の精神力や験力が必要だと考えられました。
 「わらわやみ」に陥っていた光源氏も、加持祈祷による治癒を求めて岩倉を訪れ、そこで紫の上と出逢ったのです。

「現世の囚われからの救いと、巫女の霊性」

 なぜ大雲寺が、心の病と深く関わることになったのか。
 それは、ここが古代の磐座祭祀の痕跡を残す場所だったからではないでしょうか。

山住神社。京都岩倉の原始の磐座祭祀跡。

 古代の磐座祭祀の要にいたのが巫女(シャーマン)です。巫女の神がかった状態は、「わらわやみ」=「気がふれる」ような状態と重なります。
 巫女の神がかりは、現世の常識から見れば「異常」ですが、それは現実世界のしがらみを一掃し、別の世界へアクセスする行為でもあります。
 現実の枠組みに囚われることで生じるのが「心の病」であるならば、その枠組みを外側から相対化し俯瞰する「別の視点(メタ認知)」を持つことこそが、回復への道ではないでしょうか。
 自分が落ち込んでいる世界だけが世界の全てではないと、リアリティをもって体感することは、魂の再生につながります。
 夕顔は六条御息所の祟りで死んでしまいました。光源氏は、自分が他の女性に心を向けることで六条御息所が苦しんでいたことを知っていたため、夕顔の死は自分に原因があると理解していました。
 さらに、光源氏が次から次へと女性を求めるのは、母の喪失という心の隙間を埋めたいためであり、その欲求は、父の妻となった藤壺と結ばれるという背徳行為にまで及んでしまいます。
 光源氏は、こうした出口の見えない暗い現実から抜け出す回路を、岩倉での紫の上との出逢いに見出しました。この少女を、自分の手で理想の女性に育てるのだと。
 まさに、もう一つの世界への入り口が、ここにありました。
 紫式部が、光源氏と少女だった紫の上の出逢いの場を岩倉の大雲寺に設定したのは、何かしらの確かな意図があってのことと思われます。
 光源氏は、まだ幼かった紫の上を連れ帰りました。拉致同然のその行為は、一種の「神隠し」です。
 紫の上は、光源氏の奔放な女性関係に苦しみながらも、表面的には嫉妬を抑え、誰に対しても寛容で気高く振る舞いました。生涯、自分の自我を押し殺して生きたのです。

「紫の上が背負った悲劇性と、魂の永遠性」

 紫の上の最大の苦悩は、子供が産まれなかったことです。
 光源氏が岩倉で出逢った紫の上に子が産まれないという物語の設定は、紫の上が光源氏にとっての巫女だからです。紫の上は、光源氏の叶わぬ思慕をおろす依代でした。そして巫女は生贄でもあります。
 自分の子を持たない紫の上は、さらに光源氏の意向で明石の姫君の教育係となります。光源氏に深く愛され信頼されていても、紫の上は「正当な秩序の外の存在」でしかなかったのです。
 光源氏が紫の上を六条院の春の館に住まわせたように、紫の上には光源氏と出逢った時から、桜の季節のイメージが重ねられています。
 桜と巫女は、日本の精神史において深く重なり合っており、いずれも神を招き、神を依りつかせるものです。
 さらに、桜は古来、死者の魂が集まる場所、あるいは異界への入り口とも考えられてきました。桜の下で行われる宴(花見)は、もともと死者の魂を慰め、その生命力を取り込む儀式的な側面を持ちます。これは、巫女の役割に通じます。
 巫女が「生者の世界」と「死者(神)の世界」の境界に立つのと同様に、桜もまた冬(死)から春(生)への転換における「境界の象徴」なのです。
 紫の上が子を産めず早世していく運命は、実を結ぶことよりも「咲くこと(神の依り代であること)」に全霊を捧げた、巫女的な生涯を感じさせます。
 光源氏が紫の上と出逢った場所は、その当時から、心の病を治癒するための加持祈祷の聖域でした。
 心の病とは、現世社会の閉塞的な枠組みが世界の全てであるかのような思い込みから生じやすく、そこでの軋轢や葛藤が心に大きな負荷をかけます。
 人間はいつの時代も、自分の見ている景色こそが「現実」だと思いがちです。しかし、それは常に全体の一側面に過ぎません。
 岩倉は平安京の中心からは離れており、異郷との境界でした。それは地理的なことだけでなく、歴史的にもそうだったと思われます。
 すなわち岩倉は、過去の時間と今の時間が重なり合う場所。そのような場所では、自分が生きている現実を相対化し、俯瞰する眼差しを得やすい。
 大雲寺の境内に磐座神社が祀られていることは、まさしく過去と現在の時間の重なりを象徴しています。
 魂の再生とは、俗世の価値観にどっぷり浸かっている時には見えなかった、別の「世界」の在り方をリアルに感じ取ることでもあります。
 現在、大雲寺で335年ぶりにご開帳されている十一面観音像は、その長い歳月のあいだ、人の目に触れることなく、しかし確かにそこに存在し続けてきました。
 今、目の前に見える現象だけが、世界の全てではないし、本質でもない。
 世界の本質は、はるかなる時間を超えて、人々の心に届くものの中に宿っています。

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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
3月28日(土)、3月29日(日)に、京都で、フィールドワークショップを行います。
5月2日(土)、5月3日(日)に、東京でフィールドワークショップを行います。
お申し込み、詳細は、ホームページアドレスからご確認ください
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/




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