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第1666回 「布の裏側をなぞる――AIの時代に歴史の実質を問う」

はじめに――「実質」が問われる時代へ

 AIは、単に便利なツールではなく、社会の土台そのものを入れ替え、人間の役割そのものを問い直す存在だと言われます。 
 既存の知識を詰め込むだけの義務教育や、就職のために大学へ進学するという発想は、完全に時代遅れになります。
  既存の情報を整理したり動かすのではなく、新たな知見を加えていくことだけが、情報分野において人間に残される領域です。しかしそれさえも瞬時にAIに取り込まれていく。それでもなお、さらなる未知へと向かい続ける好奇心こそが、生きることの「面白さ」の源泉であり、人間の存在証明になるのかもしれません。
  そして、人間の存在証明は、もはやステイタスや収入の大小といった情報上での比較ではなく、実質的にどうなのかが問われるようになるのでしょう。実質が伴わない情報武装や情報操作で通用していた時代は、終わりを迎えます。 
 そして「実質的なアプローチ」とはいったいどういうことなのか。この問いが、これからの時代、ますます重要になってくるでしょう。
 前置きが長くなりましたが、人間という存在を深く考察するうえで、歴史を無視することはできません。
 そして歴史を探求するうえで「実質的なアプローチ」をとるということは、「既存の権威の正統性」に惑わされず、当時の人間が直面していた「生存の条件」と「物理的な痕跡」から、逆説的に真実をあぶり出す作業だと私は考えます。
 歴史の実質的な探求とは、歴史という一枚の完成された「布」を眺めるだけでなく、その裏側の「糸の絡まり」を指でなぞる作業とも言えます。どの糸がどの糸と交差し、どこで結び目を作ったのか。裏側の生々しい手の跡を辿ることではじめて、歴史は今を生きる自分にとって実質的なものになります。

 

歴史の「布」の裏側をなぞるとはどういうことか

  1. 歴史を動かす力として見逃してはならないのは、「資源と移動」です。「この場所を押さえれば、何が可能になるのか」という、当時のロジスティクス(情報・ヒト・モノの流れのマネジメント)の急所を、地図から実質的に読み解くことが必要です。

  2. 特定の氏族が力を持った理由は、彼らが「特別な血筋」だったからではありません。「他者が持たない知恵や技術」を備えていたのは誰かという実質的な視点が欠けると、歴史認識は誤ってしまいます。

  3. 神話とは、単なる過去の記録でも権力者に都合よく作られた話でもなく、時代の変化が起きた後に、変化前と変化後の時代をメタ認知する視座から描かれたものです。大きな社会の変化にはいつの時代も産業構造の転換が関わっており、それは人間の意識の変化につながります。そうした変化をメタ認知することが、行き過ぎた行為へのブレーキにもなります。神話の創作者は、そうした自浄の力を神話に込めています。

  4. 古代における勢力の変遷は、全滅か勝利かという二択ではなく、懐柔や「婚姻による統合」があります。その際、いかにして異能を自らの懐に取り込めるかが命運を分けました。衝突と対立の継続は、互いの消耗にしかつながらないからです。

ここまでは総論ですが、ここからが各論です。 

新興住宅地に埋もれた日本の古層――狛江の古墳群の謎

土屋塚古墳(東京都狛江市)

 日本の歴史の構造を考えるうえで極めて重要な鍵が、新興住宅地の中に埋没しています。その典型的な場所が、東京都狛江市です。 
 日本国内には16万基の古墳があると言われます。古墳時代から現在まで1500年を超える歳月のなかで、古墳が最も激しく破壊されたのは戦後であり、この時代は、日本史の中で最も過去と断絶された時代と言っていいでしょう。 
 過去がわからなくなると、時代が変わっても変わることのない普遍性もわからなくなります。 
 東京都狛江市は、「狛江百塚」と言われるほど数多くの古墳が築かれた場所で、かつては70基ほどの古墳が存在しましたが、宅地造成などによってその大半が破壊されました。
 しかも古墳の大半は5世紀から6世紀初頭に集中しており、この約100年のあいだ、一大勢力がここを拠点にしていたと考えられます。
  狛江の古墳群は日本の古層を考えるうえで極めて重要ですが、この古墳群の謎を解く鍵が、この古墳群で最大級の亀塚古墳です。全長42m、高さ7mを誇る帆立貝形古墳で、5世紀末の築造です。  

亀塚古墳(東京都狛江市)

 この古墳は上下に重なる2つの木炭槨と一つの石棺の埋蔵施設を持ちます。上の木炭槨からは金銅装毛彫金具の一部が見つかっています。金箔が貼られた厚さ0.3mmほどの銅板に、小落差模様や人物像、龍、麒麟といった図像が点刻されており、それらが高句麗の古墳石室内の壁画と類似していることが注目されました。  
 下の木炭槨からは、後漢(西暦25年〜220年)製造の神人歌舞画像鏡が出土しています。同じ鋳型から作られたものが、京田辺市のトヅカ古墳、伝埼玉県秋山古墳群、大阪府の郡山西塚古墳、伝大阪府長持山古墳、福岡県の番塚古墳、岡山県の朱千駄古墳などからも出土しており、いずれも5世紀末から6世紀前半のもので、渡来系氏族と関わりの深い場所であることが特徴的です。
 この鏡は、南北朝時代の宋(420年〜479年)への朝貢の際の下賜品と考えられています。 
 そのほか鉄製の刀身や大量の鉄鏃、馬具が出土し、円筒埴輪や人物埴輪に加え、馬形埴輪も出土しています。 
 狛江の亀塚古墳は高句麗人が被葬者である可能性が高いのですが、同じ帆立貝形で、これよりも巨大な全長82mの野毛大塚山古墳が、等々力渓谷のそばに築かれています。狛江からは国分寺崖線を東に6kmほどのところです。

野毛大塚山古墳(東京都世田谷区野毛)

 

 野毛大塚山古墳には埋葬用の棺が4基あり、とくに鉄製の武器・武具が多く出土しています。刀剣の関東での副葬は最初期のもので、実用品・儀礼品を含む様々な形の鏃なども出土しています。 
 さらに、革で綴じられた小札の甲冑は国内最古級のものです。小札は騎馬戦に適した動きやすい防具として発達したもので、起源はオリエントにあると推定されます。中国では紀元前5世紀頃の戦国時代以降に発達し、西暦5世紀に騎馬の術とともに日本に伝わったと考えられています。すなわち等々力の野毛大塚山古墳の被葬者は、こうした大陸由来の軍事的装備を日本で最も早い段階に身につけていたことになります。

泉龍寺弁財天池(東京都狛江市)

 等々力渓谷をはじめ、多摩川に沿った国分寺崖線上は湧水が出る場所が多く、縄文時代からの遺跡も数多く残っています。ここを拠点にした勢力が独自に大陸と接点を持っていたのか、あるいは大陸の人々がこの地に入り込んできたのか?

高句麗と倭の衝突、そして東国への馬文化の伝来 

 多摩川流域の狛江や等々力に、高句麗勢力との関わりが見られる帆立貝形古墳が築かれた5世紀を考えるうえで、歴史上の鍵となるのが、高句麗の丸都城近く、鴨緑江河畔に414年に建てられた広開土王碑の記録です。
  この碑には高句麗の歴史だけでなく、三国時代の朝鮮の国際関係、さらに日本(倭)との関係も記述されています。それによると、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出し、400年、404年、407年に高句麗の広開土王によって撃退されたようです。
  400年の記録では、高句麗の歩兵と騎兵合わせて5万の兵の前に倭軍が惨敗したとあります。その頃までの日本列島の古墳からは、馬具や馬の骨がほとんど出土していないため、倭軍は、歩兵主体だったと考えられています。
  高句麗では4世紀の段階では古墳から出土する馬具はまだ限られていましたが、5世紀、倭と戦った好太王の頃から、馬具の副葬は質・量ともに飛躍的に増しました。北部アジアの騎馬民族の影響を受けながら独自の騎馬軍団を形成し始めた頃に、倭と戦ったのです。 
 日本においては、5世紀初頭に築かれた帆立貝形の野毛大塚山古墳からは馬具は出土していませんが、5世紀末に狛江に築かれた帆立貝形の亀塚古墳からは多くの馬具や馬形埴輪が出土しています。 
 そして5世紀後半以降の古墳時代後期において、古墳から出土した馬具の数量では、関東が近畿を圧倒しています。こうした事実から、5世紀初頭に朝鮮半島で高句麗の騎馬戦力の前に惨敗した倭が、その後積極的に馬を導入し、それが東国で顕著に行われたと考えることもできます。
 一方、狛江の亀塚古墳から出土した金銅装毛彫金具が高句麗の古墳装飾と共通していることから、高句麗人が大挙して東国に入り、馬文化もともに伝来したと考えることもできます。
  古墳時代後期、馬具だけでなく甲冑の出土においても関東が近畿を圧倒しており、近畿のヤマト王権が軍事力によって日本各地を統治していたという従来の見方を再考する必要があります。この東国の軍事的優位性の背後に、高句麗系渡来人の存在が見え隠れしているのです。
  

2013年5月『土曜考古』第35号(特集:武器・馬文化)所収
岡安光彦 1986年3月『考古学雑誌』第71巻第4号より

 この問題をさらに検討するうえで鍵となるのが、日本書紀における国譲り神話の記述です。  

星神・天香香背男は高句麗系勢力を象徴するのか

 一般によく知られている国譲り神話は古事記のもので、タケミカヅチが大国主神に国譲りを迫る形をとっています。しかし日本書紀にはこの続きがあり、タケミカヅチが国譲りを迫っても星の神・天香香背男だけは服従しなかったため、織物の神・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わして懐柔したという記述があります。
  鹿島神宮の社伝によると、星神の天香香背男は常陸の大甕を拠点にしていたとされ、現在この場所に鎮座する大甕神社の岩山が、天香香背男の荒魂を鎮めた宿魂岩とされます。 

大甕神社(茨城県日立市)。この岩山が、天香香背男の荒魂を鎮めたとされる宿魂石であり、その山上に建葉槌命を祀る本殿が鎮座している。

 高句麗文化において、星は極めて重要な位置を占めています。高句麗人は北斗七星を北方の守護神として神聖視しており、高句麗の古墳壁画には北斗七星や三宿、太陽(金烏)、月(玉兎)が精緻な天井画として描かれています。これは単なる装飾ではなく、王の権威が宇宙の秩序(星)と直結しているという思想の表れです。 こうしたことから、『日本書紀』の国譲り神話に登場する星神・天香香背男が象徴しているのは、高句麗系渡来人と関わりの深い関東の勢力と洞察することができます。
 続日本紀には、「716年、埼玉県日高市に高麗郡が設けられ、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七か国に居住していた1,799人の高麗人系渡来人が集められた」という記録があります。常陸にも高句麗人がいたというこの記録は、常陸の星神、天香香背男と高句麗の接点となります。
 さらに日本書紀の国譲り神話と重ねて考えられるのが、古代武蔵国における二つの勢力の対立、すなわち「武蔵国造の乱」です。 
 西暦534年頃、武蔵国において笠原使主(かさはらおみ)と小杵(おぎ)が対立し、小杵が上毛野(群馬)の協力を仰いだため、笠原使主は畿内の朝廷に支援を求めて勝利しました。

 その際、笠原使主は四か所を朝廷の屯倉として差し出しました。この四か所が、小杵の拠点であった多摩・横浜・川崎あたりの多摩川流域と、埼玉の比企とされています。

 多摩川流域を拠点とした小杵が協力を求めた上毛野(群馬)は、5世紀から7世紀にかけて東国有数の馬の生産地でした。 
 群馬県高崎市の綿貫観音山古墳からは、東日本屈指の豪華な金銅製馬具なども出土しています。また群馬県には渡来系とされる積石塚古墳(石のみを積み上げたもの)が多く、高崎市の剣崎長瀞西古墳群や下芝谷ツ古墳からは、金製の豪華な装飾品や馬具とともに朝鮮半島系土器が出土しており、渡来系有力者の墓と推測されています。 
 武蔵国造の乱で笠原使主と対立した小杵と上毛野の勢力は、渡来系だった可能性があり、それが日本書紀の国譲り神話で最後まで抵抗した星神・天香香背男と重なってきます。  
 最終的に畿内の朝廷と笠原使主の勢力によって乱は鎮められましたが、笠原使主の勢力の墓が埼玉古墳群だという説があります。 
 埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「杖方人」と刻まれており、これが丈部氏となり、丈部氏は律令体制において武蔵氏となって氷川神社を奉斎し、府中を国府として武蔵国を治めました。 
 668年、高句麗は唐と新羅の連合軍によって滅亡し、宝蔵王の息子・若光に率いられた高句麗の人々が、神奈川の大磯・高麗山の麓に上陸したと伝えられています。
  その後716年、埼玉県日高市に高麗郡が設けられ、七か国に居住していた1,799人の高麗人系渡来人が集められたことが、続日本紀に記録されています。 
 こうして東国の高句麗系勢力は、6世紀初頭に第26代継体天皇が即位してから奈良時代にかけて、畿内を中心とする中央集権的体制に組み込まれていきました。

織物の神による懐柔――「実利・祭祀・婚姻」という政治的統合

  日本書紀の国譲り神話で、高句麗勢力と重なる星神・天香香背男を、織物の神・建葉槌命が懐柔したというくだりは、こうした一連の流れを反映していると思われます。
 だとすれば、織物の神・建葉槌命がいかなる勢力を象徴しているのかという謎が残ります。 
 建葉槌命と同一、あるいは系譜上の連続とされる織物の神が、天伊佐布魂命(あめのいさふたまのみこと)で、この神を祖とするのが額田部宿禰です。 
 日本書紀の国譲りにおいて天香香背男の拠点とされた常陸国の大甕神社は久慈川流域に鎮座していますが、大甕神社から久慈川を西に10kmほど遡ったところが「額田」であり、そこからさらに西に7kmに、常陸国二宮の静神社が鎮座しています。この地は『常陸国風土記』の「静織(しどり)の里」=倭文郷であり、静神社の祭神が、星神の天香香背男を懐柔した織物の神、建葉槌命です。 
 日本書紀の国譲りの主役である二神の聖域のあいだに位置する額田には、天神小屋古墳、富士山古墳、森戸古墳、愛宕山古墳、大宮古墳、伊達古墳、新地古墳など多数の古墳があります。  
 前回の記事でも述べたように、推古天皇の諱が額田部であり、額田部は継体天皇擁立の背後にも存在した勢力です。

(阿蘇のピンク石の切り出し場(熊本県宇土市)。継体天皇と推古天皇の古墳の石棺には、阿蘇のピンク石が使われている。奈良時代の文書『正倉院丹裹文書』の一文には、「肥後国宇土郡大宅郷戸主額田君得万呂…」という記録があり、阿蘇のピンク石の産地の熊本県宇土に、額田君(ぬかたのきみ)という姓を持つ人物が実在した。)

 ただし武蔵国造の乱が起きた武蔵国においては、額田部氏の痕跡を見つけることができません。
 しかし『先代旧事本紀』『国造本紀』によると、和邇氏の祖・彦国葺命の孫にあたる大真侶古命が成務天皇朝に額田国造に任じられたとあり、これによれば和邇氏と額田部氏は同族ということになり、 そうすると和邇氏の後裔が小野氏ですから、武蔵国一宮が小野神社であるように、武蔵国には小野氏が深く関わっています。 
 小野氏は歴史を通じて「外交」「交渉」「境界の管理」を職能としてきました(小野妹子の遣隋使などはその典型です)。
 武蔵の乱の際、笠原使主が畿内の朝廷に支援を求めたとき、小野氏がこの地に遣わされたと考えられます。そのため武蔵国だけでなく、笠原使主と対立した上毛野(群馬県)の渋川・富岡・藤岡といった地にも小野郷が残っています。 
 奈良時代の律令体制において府中に国府が置かれ、武蔵国の秩序が形成されていきますが、武蔵氏(丈部氏)のもと、多摩川の左岸には武蔵氏(丈部氏)が奉賽する氷川神社が多く築かれ、右岸は武蔵国一宮の小野神社(聖蹟桜ヶ丘)が築かれ、この一帯が小野郷となり、町田市にも小野神社が鎮座します。
 さらに興味深いのは、さいたま市の氷川神社と厚木市の小野神社にはともにアラハバキ神が祀られており、その二つの聖域のあいだは60kmで、その一直線上の真ん中が府中の国府にあたることです。

  アラハバキ神は別名「門客神(もんきゃくじん)」、すなわち門を守る客神です。
 客神とは、新勢力が進出した際にかつての支配勢力が祀っていた「古い神」を指します。時代の転換期において新勢力は旧勢力の神を排除せず、むしろ門の守護を委ねることで霊的な調和を図ったのです。
 アラハバキ神は古事記や日本書紀に登場しない「謎の地主神」であり、しばしば鉄を操る技術神とされます。 また脛巾(はばき)は、もともと足を保護するために巻く布や革(脚絆)のことですが、古代の軍人や騎馬武者にとって機動力を象徴する装備でした。
  すなわちアラハバキ神は、かつての支配勢力が祀っていた「古い神」ですが、その古い勢力とは高句麗である可能性があります。
  アラハバキ神を祀る代表的な聖域は、武蔵国以外では愛知県東部の新城から豊川にかけての地域で、石座(いわくら)神社、砥鹿神社、砥鹿神社の奥宮である本宮山などに祀られています。
 砥鹿神社の東3.5km、本宮山の麓の豊川市と新城市の境界をなす尾根上には、6世紀から7世紀に築かれた総数40基ほどの古墳群があります。 この旗頭山尾根(はたがしらやまおね)古墳群の最大の特徴は、積石塚古墳を多く含むことです。群馬県にも多い積石塚は、上述のように渡来人に関わる古墳との見方があります。
 また 、砥鹿神社の南3.7km、6世紀末に築造された東三河最大級の馬越長火塚古墳の副葬品の馬具には、朝鮮半島から伝わったとみられる「鉄に金メッキを施す」高度な技術が使われていました。
  本宮山をシンボルとする周辺地域は、古代に「穂の国」と呼ばれ、実り豊かな土地でした。6世紀前後の多くの古墳から馬具が出土しており、「鉄と馬」の文化が早くから根付いた地域であったと考えられます。 
 武蔵国の多摩川流域を拠点とした高句麗系の勢力が6世紀から8世紀にかけて中央集権的秩序に組み込まれていったように、愛知県の本宮山周辺も同じ経緯をたどったのでしょう。そしてその過去の痕跡が、両地域において、門を守る客神・アラハバキ神として残されているのです。
「馬」や「鉄」といった強力な戦闘能力を備えた高句麗系勢力を、正面衝突ではなく従わせていくプロセス。それが『日本書紀』で描かれている、織物の神による星神の懐柔です。
  これは単なる武力による制圧ではなく、「実利(経済)」と「祭祀(精神)」と「血(婚姻)」を軸に、彼らの力を国家のインフラへと変換していく、高度な政治的統合でした。
  中央政権は彼らの居住地に「屯倉」を置き、小野氏や額田部氏のような管理官を派遣しました。そして戦いのために使われていた鉄や馬を「農具」や「物流・開墾」の手段へと転換し、経済的な実りへとつなげていく。
 さらに彼らの神をそのままの形で認めつつも「門(境界)」を守る存在へと昇華させる。 そのうえで婚姻によって同一の勢力となる。 このように縦糸と横糸を丁寧に織り込んでいくような、きめ細かな取り組みこそが、織物の神による懐柔という物語に象徴されているのでしょう。

小野神社(神奈川県厚木市)。境内社に、アラハバキ神が祀られている。

おわりに――歴史に向き合うことの意味

  歴史の実態は、強者が弱者を力づくで制圧し、支配し続けてきた結果ではありません。 そうした歴史観は情報として単純化しやすく、だからこそ多くの人が安易に共有し、納得しやすい。
 しかし、誰もが理解しやすい情報は、それを発信する権威によって容易に操作されうるものでもありますし、実際に起きた事件ですが、 考古学的証拠の捏造によっても歴史は書き換えられてしまいます。 
 気をつけなければいけないのは、歴史に関する「正しい情報」を重視しすぎてはいけないことです。
 正しさとは時代環境によって変わるものであり、かつての権威ある歴史家の説が近年の考古学的発見によって覆されたケースは枚挙にいとまがありません。
  歴史に向き合ううえで重要なのは正しさではなく、歴史を通して何を学ぼうとしているかです。 
 そして、どんなに時代環境が変わろうとも変わることのない、人間にとっての普遍性を見出すこと。それこそが、歴史に実質的に向き合うことの意味なのだと、私は思います。

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