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第1664回 歴史を動かす陰の力

歴史の表舞台に立つのは、常に「王」や「将軍」だ。しかし、王が権力を掌握したり持続させるためには、必ずその背後に、実務的な力を持つ集団組織が必要になる。軍事力だけで広大な地域を統治することは、いつの時代も不可能に近い。
 国家や大企業のトップが「権力者」として可視化される一方で、現実の社会を動かしているのは、しばしば異なる組織・地域・文化の「あいだ」に立つ人々だ。業界をまたぐ調整役、プラットフォームの設計者——彼らは表舞台に立たないが、ネットワークの結節点として、社会の構造を実質的に形成している。
 この構造は、現代に限った話ではない。古代史を丹念に読み解くと、日本の二つの重要な転換点に、表舞台には出ないある勢力の影が、くっきりと浮かび上がってくる。

九州の石が、なぜ大王の棺になったのか

 継体天皇と推古天皇——日本古代史において、いずれも大きな転換点に立った二人だ。
 第26代継体天皇は507年頃に即位した。武烈天皇が子を残さずに亡くなり血統が断絶したため、継体天皇は事実上の初代天皇とも位置づけられる異色の君主だ。
 推古天皇は593年に即位した日本初の女性天皇だ。蘇我氏の傀儡政権とみなされることもあるが、39歳で即位してから35年間、遣隋使の派遣・仏教の振興・17条憲法の制定・冠位十二階の制定など、日本史上重要な政策を次々と実行した。近年では、聖徳太子像の見直しや、蘇我馬子が葛城の領地を求めた際に推古天皇がこれを拒否したという記録などから、推古天皇自身の主体性が再評価されている。
 この二人の石棺が、ともに熊本の宇土の馬門から産出する阿蘇のピンク石(阿蘇溶結凝灰岩)で作られている。


 継体天皇が即位した西暦500年前後から推古天皇が即位した西暦600年頃まで、畿内の奈良盆地を取り囲む有力豪族の古墳、そして近江の三上山の麓の二基にも、阿蘇のピンク石を石棺の石材として使った古墳がある。興味深いのは、阿蘇のピンク石を使った王の石棺が九州では見られず、主に近畿(中国地方に僅か)に限定されていることだ。産地から遠く離れた場所でのみ、この石材が使われている。

 宮内庁は継体天皇陵を太田茶臼山古墳(茨木市)に治定しているが、考古学的な見地からは、この古墳は継体天皇の時代より100年ほど古い。専門家のあいだでは、約1.6km東の今城塚古墳が真陵と判断されている。
 推古天皇については、『古事記』に「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が記されており、最初の陵墓とされる植山古墳(奈良県橿原市)の石棺が、阿蘇のピンク石で作られている。いずれも宮内庁が治定していない古墳が専門家によって真陵と判断され、そこからピンク石の石棺が確認されているのだ。
 なぜ、九州・熊本の阿蘇で産出される石材が、畿内の大王・女王の棺として選ばれたのか。九州の石材を調達し、海路で畿内まで運搬できるほどの、強力なネットワークと実力を持つ集団の存在——そこに謎を解く鍵がある。

「額田部」という名前が結ぶ点と線

 その手がかりは、推古天皇の本名にある。
 推古天皇の諱(いみな)=本名は「額田部(ぬかたべ)」という。通説では、推古天皇の養育に携わった氏族が額田部氏とされているが、古代日本には「母方養育」の慣習があったことから、推古天皇の母・堅塩媛(きたしひめ)の母が額田部氏だった可能性がある。堅塩媛の父は蘇我稲目だが、母親については、どの文献にも記録が残っていない。 
 一般的に蘇我稲目は、娘を欽明天皇に嫁がせたことで実力者になったとされているが、欽明天皇には、堅塩媛の母方の実家の力が必要だったという見方もできる。欽明天皇は、新羅に奪われた任那の奪還を遺言にまで残したほどであり、海の向こうの新羅と渡り合う実践的な力を求めていたからだ。
 この仮説を傍証するのが、欽明天皇の時代(6世紀後半)、出雲(島根県松江市)に築かれた岡田山1号墳から出土した鉄刀の刀身に、「額田部臣(ぬかたべのおみ)」という銀象嵌の銘文が刻まれていたことだ。「臣」は当時の政権内で有力な勢力に与えられた役職名だ。
 出雲は敵国・新羅と対岸の位置にあり、日本の前線基地ともいえる場所だった。額田部氏がその地で「臣」として活動していた事実は、単なる技術集団を超えた政治的・軍事的な役割を示唆している。
 そして、奈良時代の文書『正倉院丹裹文書』の一文には、「肥後国宇土郡大宅郷戸主額田君得万呂…」という記録がある。
 阿蘇のピンク石の産地に近い熊本・宇土に、額田君(ぬかたのきみ)という姓を持つ人物が実在した証拠だ。
 こうして「額田部」「阿蘇のピンク石」「宇土」「出雲(対新羅の前線)」「継体天皇」「推古天皇」という点が、一本の線でつながってくる。

継体天皇の背後にも、額田部氏の影

 継体天皇においても、額田部氏との接点を示す痕跡がある。
 奈良県大和郡山市の額田部には、額田部狐塚古墳がある。この地は、額田部氏の氏寺として知られる額安寺のある場所だ。
 この古墳から出土した埴輪が尾張系であるという点が注目される。継体天皇の最初の妃は尾張目子媛であり、継体天皇の擁立に関わったとされる勢力は尾張・近江・山城・摂津に広がっていた。この系統の埴輪が大和で確認されるのは額田部狐塚古墳が初出とされ、被葬者が継体天皇を支えた人物に連なる可能性が指摘されている。
 継体天皇(507年頃即位)と推古天皇(593年即位)は、時代こそ約80年離れているが、どちらの「背後」にも、額田部氏と思われる痕跡が浮かび上がる。
 興味深いことに、継体天皇が二番目に築いた筒城宮(京田辺)の真南に、額田部氏の氏寺である額安寺があり、一番目の樟葉宮と、三番目の弟国宮の真南に、平群氏と紀氏の共通の祖を祀る平群坐紀氏神社が鎮座している。
 平群氏と紀氏は、婚姻を通じて額田部氏と同族である。

馬・鍛治・水運——三つの実力が示すもの

 額田部氏は、単一の血族集団ではなかった。
『新撰姓氏録』には、5世紀初頭、東漢氏の祖・阿知使主とともに渡来系技術者たちが来日した記録があり、そのなかに額田村主がいた。須恵器の製造や鍛治と深く関連する技術者集団だったと考えられている。
 また、雄略天皇の時代に大臣として活躍した平群真鳥の弟・早良宿禰は、母の氏である額田首を名乗り、生駒で馬を養育して天皇に献上したことで馬工連の姓を賜ったという記録が残っている。これは額田部と平群が婚姻によって同族になっていたことを示しているが、平群氏はさらに海人の紀氏とも同族だ。
 奈良県生駒郡平群町、竜田川沿いには平群坐紀氏神社という名神大社が鎮座し、紀氏の氏神として平群氏の祖・木菟宿禰が祀られている。その近くに築かれた三里古墳(6世紀後半)は、紀氏の拠点・紀ノ川下流域に特徴的な石棚付石室を持つ。
 こうした痕跡から、海人の紀氏・馬飼の平群氏・須恵器と鍛冶の技術を持つ額田部氏は、婚姻を通じて一つのネットワークを形成していたと考えられる。
 馬は軍事力と情報伝達の基盤、鍛治は武器・農具・船具の生産基盤、水運は物流と人的ネットワークの基盤だ。この三つを掌握することは、当時の権力構造において決定的な意味を持つ。
 阿蘇のピンク石を九州から畿内まで運搬するためにも、まさにこの水運ネットワークが不可欠だった。

「仲立ちの神」と「和をもって尊し」

 しかし、額田部氏の本質は「実力」だけではなかった。
『新撰姓氏録』には、摂津国の「額田部宿禰」や「倭文連(しとりのむらじ)」の祖神として、天伊佐布魂命(あめのいさふたまのみこと)が記録されている。この神は機織りの神であり、建葉槌命(たけはずち)と同一、あるいは系譜上の連続とする説がある。
 古事記の国譲りは、広く知られており、大國主命と事代主神が、武甕槌神の前の提言に同意する形をとっている。 
 意外と知られていないのが、日本書紀の国譲り神話では、その続きがあること。武神の武甕槌神でも服従させられなかった星神「香香背男(カガセオ)」を、建葉槌命が屈服させることで、ようやく国譲りが成し遂げられたとされている。

大甕神社(茨城県日立市)。日本書紀の中の国譲りの最終局面は、織物の神であるタケハズチが、星神のカガセオを説得して服従させるのだが、その象徴的舞台が、大甕神社。 この神社の境内には巨大な岩塊があるが、この岩塊が、服従することになったカガセオの荒魂が宿る宿魂岩で、そのてっぺんに、タケハズチを祀る本殿が築かれている。

 軍事力ではなく、織物が縦糸と横糸を結ぶように異なる勢力を結びつける調停の力——それが建葉槌命の象徴だ。歴史的にも、建葉槌命の後裔とされる倭文氏の役割は、揉め事の「仲立ち」だったとされる。
 だとすれば、同じ祖神の系統を持つ額田部氏も、馬・鍛治・水運という実力を背景にしながら、軍事的征圧ではなく調停・仲立ちという方法で秩序を作り上げることを、自らの役割としていたと考えることができる。
 そのことを最も強く示唆するのが、推古天皇の時代に制定された17条憲法の第1条と、第17条だ。
 一曰く、 和をもって尊しとし、むやみに反目し合わないのを教義とせよ。
 十七曰く、人夫の事がらの独断はよくない。
 
丁未の乱—宗教をめぐる争いではなく、独裁と独断を阻止する戦い

 この視点から、587年の「丁未の乱」を読み直すと、新たな意味が見えてくる。
 一般的にこの戦いは、仏教受容を推進する蘇我馬子と、日本古来の神々を重んじる物部守屋の宗教的対立として説明される。しかし、この戦いのきっかけは、物部守屋が支援する穴穂部皇子が、敏達天皇の崩御後に皇后・炊屋姫尊(かしきやひめ)——すなわち額田部皇女、後の推古天皇——を犯そうとしたことだった。
 これは単なる性暴力ではなく、炊屋姫尊の背後にある額田部氏の力を奪い、独裁者になろうとした行動だったと思われる。それゆえ蘇我馬子は「世が乱れる」と憂慮し、物部守屋は穴穂部皇子と連携した。
 仏教をめぐる問題は、単なる宗教上の対立ではなかった。同時代の中国では、北魏から隋へと王朝が変わっていたが、その後の唐も、少数民族の鮮卑族が行政の担い手だった。
 北魏を建国した鮮卑族は、国内の部族間対立を緩和するために仏教を保護し、莫高窟や雲崗・龍門の石窟寺院を築いた。この北魏から唐までが、中国における仏教文化の最盛期であり、「仏の前に平等」という理念が、異なる神々を掲げて対立する勢力の争いを鎮める力として機能した。
 日本においても、「仏の前に平等という理念」を取り入れようとする勢力と、それを拒絶して独裁を目指す勢力との対立——その本質はそこにあった。物部氏と穴穂部皇子が滅ぼされた後、仏教の振興と17条憲法の制定が同時に行われたのは、その帰結だった。

ニニギとコノハナサクヤヒメ——神話が語る統合の理念

 ここで視野をさらに広げると、古代日本の「統合の理念」が神話の形で語られていることに気づく。

 阿蘇のピンク石を産出する熊本の宇土の馬門は、緑川の河口域に位置しており、緑川の上流域には天孫降臨の舞台・高千穂がある。さらに興味深いことに、宇土の馬門、ニニギとコノハナサクヤヒメが出会った場所とされる延岡の笠沙山、二人の陵墓治定地である西都原古墳群、二人を祀る霧島神宮が、地図上に精緻な距離関係で配置されている。
 宇土の馬門から笠沙山・西都原古墳群・霧島神宮までがいずれも93kmであり、西都原古墳群から笠沙山および霧島神宮までがいずれも57kmだ。

 西都原古墳群は日本最大の古墳群で、4世紀初頭から7世紀前半にかけてあらゆる形式の古墳が築かれている。
 コノハナサクヤヒメの陵墓に治定される女狭穂塚(九州最大の前方後円墳、180m)と、ニニギの陵墓に治定される男狭穂塚(日本最大の帆立貝形古墳、175m)は、ほぼ同じ大きさで寄り添うように存在している。

 しかし、帆立貝形古墳という様式は、日本全体を統治する大王の形式とは言いがたい。
 帆立貝形古墳が最も集中する場所は、大阪・仁徳天皇陵を取り囲む小規模古墳群であり、これらは西暦400年代初頭に渡来した技術者集団の族長の墓ではないかとも考えられている。東京の多摩川沿い(高麗人が居住した狛江・等々力渓谷周辺)にも帆立貝形古墳が多く存在する。
 つまり男狭穂塚(西暦400年頃と推定)をニニギの陵墓とすれば、ニニギは5世紀初頭に日本にやってきた渡来系の技術者勢力だという仮説が浮かび上がる。この時代の最大の技術革新は、鉄製品の大量生産を可能にした鋳鉄技術と、それを支える須恵器製造の技術だった。

 ここで、神話の一場面が意味を帯びてくる。コノハナサクヤヒメは、ニニギに「あなたの子であれば、火の中でも無事に産まれる」と言い、炎の中で出産した。
 摂氏1200度で焼き上げる須恵器——「火の中でも壊れず、むしろそこで完成する」という技術の象徴が、この神話に重なる。
 そして神話の核心は、ニニギがコノハナサクヤヒメの子を「自分の子ではない」と疑ったことにある。異なるものの出会いには、軋轢と葛藤があり、それを乗り越える理念と実践が必要になる。西洋哲学でいえばヘーゲルの弁証法——対立する要素の本質を、より高い段階で統合・発展させる「アウフヘーベン」のプロセスだ。
 この理念と実践は、古代日本における問題解決の根本にあった。隼人や蝦夷など、戦いに敗れた側の人々を朝廷の門の守衛とし、祟り神を守護神に転じさせる——対立を融合・統合へと変換する仕組みが、古代日本には意識的に作られていた。
 この理念と実践を最も必要とした時代が、まさに継体天皇と推古天皇の時代だった。継体天皇は、新羅の脅威が高まる中で急遽即位した。推古天皇は、丁未の乱の後の混乱を収拾するために即位した。どちらの時代にも、力による征圧ではなく、異なる勢力を結びつける「統合の理念と実践」が求められていた。

歴史の節目に潜む「見えない力」

 額田部氏が実際にここで述べたような役割を果たしていたかどうかは、現時点では仮説の域を出ない。しかし、馬・鍛治・水運という実力と、仲立ち・調停という機能を併せ持つ集団が、日本古代史の二つの大きな転換点に見え隠れするという構造は、示唆に富む。
「誰が王だったか」を追うだけでは、歴史の実像には迫れない。表には出ないが、異なる勢力・地域・文化のあいだに立ち、物流・情報・技術を掌握することで、実質的に秩序を作り上げていく存在——その力なくして、歴史の転換点は生まれなかったのかもしれない。
「権力者の背後で、誰が何をしていたのか」。この問いを持つことが、歴史を表層から深層へと読み解く、最初の一歩になる。

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