本橋成一さんのお別れ会から帰ってくる。
会場となったポレポレ舎から、帰り際に、『無限抱擁』という写真集をいただく。新装版のようだが、この写真集は保有していて、2004年4月発行の風の旅人の第7号で本橋さんのページを構成した時の何枚かの写真も、ここに含まれている。
本橋さんとのお付き合いが、この『『無限抱擁』から始まったので、なんとも運命的なものを感じる。
人の命は永遠というわけにはいかないが、人の魂は、作品を通じて、いつまでも残り続けるということを、あらためて思う。
というのは、無限抱擁を見ていると、本橋さん内面(魂)が、とてもよく伝わってくるからだ。作品というのは、その人の内面を映す。本橋さんの考え方、感じ方、対象との向き合い方、誠実さ、真心、真摯さ、それらを全て統合したものが「魂」だと思うが、その本橋さんの魂が、『無限抱擁』には、濃密に反映されている。
世の中には様々なアウトプットが満ち溢れている。コンセプチュアルなもの、自分本位のもの、欺瞞に満ちたもの、それらはすべて、その人自身を反映している。
SNSの文章やコメントだってそう。発言している内容が正しいとか間違っているかはあまり重要ではなく、伝え方とか、言葉の使い方とか、立ち位置が大事で、日頃、他者を差別的に見ている人や、自己本位の人は、そういうアウトプットになる。
歴史解釈にしても同じで、他の国の人を差別的に見て、日本人を優秀な民族だと思い込んでいる人は、歴史解釈も、選民主義的なものになる。
願望として権力志向の人は、歴史を学習する時も、権力者の変遷が目にとまる。
人に勝つか負けるかに固執している人は、勝者と敗者の関係が歴史だと解釈し、その歴史解釈においても、どちらが正しいかを競い合い、相手に勝ち、やりこめるために、言葉が次第に乱暴になる。邪馬台国が九州にあったか畿内にあったかを論争している人たちの言葉は、とても荒くて、粗い。
だから、どんなケースでもそうだが、人の意見を聞く時は、その意見が正しいか間違っているかを判断するよりは、意見に反映されている人間の内面に思いを馳せた方がいいかもしれない。これは SNS上の記事に限らず、学者や政治家の意見も同じだ。
現代社会は、競争社会なので、作品においても、序列をつけることが当たり前になっている。様々な賞や、いいね!の数の競い合いや、評論家の批評など。
そして、そうした声に影響されてしまって作品を見る人も多い。自分では何も感じないのに、何かの賞を受賞していたり、評論家が褒めていると、自分にはその価値を理解できないのだろうかと悩んだり、売れているというだけで、いい内容に決まっていると思い込んだり。
しかし、作品と出会うことは、その作品を作った人間と出会うこと。その人間に惹かれたり、影響を受けたり、といったことは、おしなべて個人的で当事者間の体験だ。
自分の中に準備ができていない時は、うまく出会えていなかったものが、自分の成長に応じて出会えることもあるし、人生の危機や、生老病死の壁にぶつかった時にしか、感じ取れないものもある。
畢竟、どういう出会いを積み重ねて、自分自身が形成されていくかが重要で、その形成によって、自分のアウトプットが変わってくる。そのアウトプットは、正直に、自分自身を反映する。
人間付き合いもそうだが、いつ会っても新鮮さを感じたり、味わい深いものを感じる場合は、付き合いは長くなるし、新鮮さもなく、味わい深さもなければ、会うことは義務感でしかない。
作品だって、何度も見直せるものと、そうでないものがある。
本橋さんは、チェルノブイリ原発事故の被災地の写真でも、衝撃だけを前面に押し出したものをアウトプットしていない。
しかし、すべてが、じっくりと心の深いところに語りかけるものであり、いろいろな思いが湧き出てくる。
本橋さんが、被写体の人たちと深いところで出会ってくれているおかげで、これらの作品を見る私たちも、その人たちと深いところで出会える。
被写体の人たちにも、本橋さんにも、存在してくれていて、本当に有難うという気持ちになる。
存在に対する感謝。いずれ死ぬことが宿命の人間にとって、生きることの意味は、究極において、そこにしかないのかもしれない。
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