前回の記事では、神奈川県の寒川神社が全国唯一の「八方除(はっぽうよけ)」の守護神を祀る背景について触れました。
寒川神社が鎮座する場所は、相模湾から内陸部へと続く巨大なエネルギーの通り道で、北アメリカプレートとフィリピンプレートのあいだの相模トラフの影響をダイレクトに受ける、まさに地表の「割れ目」に該当します。
南北に走るこの割れ目(断層)は関東平野の西端にあり、ここを境に、西側は、数千年前から数億年前の古くて硬い岩盤、東側は数百万年前から現在にかけて積もった柔らかい地層の関東平野です。
この新旧の大地の境界線をなぞるように流れているのが相模川です。川の東岸は小高い段丘となっており、西側に丹沢山塊を望むその光景は、特に夕刻には息をのむほどの絶景となります。
縄文から続く「聖地」の系譜
日本各地の縄文遺跡は、湧水に恵まれた見晴らしの良い高台に多く点在しますが、相模川流域も例外ではありません。
約5000年前の大集落跡である勝坂遺跡(相模原市)では、土を掘るための打製石斧が出土しており、縄文時代の農耕の可能性を示す地として注目されています。
勝坂遺跡がある高台は、西側が少し低い段丘になっており、ここから今でも湧水が出ていますが、ここに古代祭祀遺跡の勝坂有鹿遺跡があります。古墳時代前期の4世紀から7世紀のものと推定されており、銅鏡7、勾玉1のほか石製の祭具、土師器の土器など計306点の祭祀関係の道具が出土しました。
勝坂有鹿遺跡から南に4.5kmほどのところに秋葉山古墳群(海老名市)があり、座間丘陵の尾根沿いに、計6基の古墳が確認されています。
第二号墳の後円部頂上は標高84.6メートルで、これは海老名市の最高地点です。この古墳群は、周辺360度を見渡せるところに築かれているのです。
「ヤマト王権による中央集権的体制」という歴史観への疑問
秋葉山古墳群は、3世紀から4世紀にかけてのものですが、最も古い第三号墳は、纏向型の前方後円墳とも呼ばれ、ヤマト王権の象徴とされる前方後円墳の最も古い形で、この古墳が3世紀に、この場所に築かれていることが持つ意味は、とても大きなものがあります。
この古墳群は、同時期の奈良盆地の古墳に対して、規模において見劣りがしないにもかかわらず、葺石、段構造、円筒埴輪が見られません。
葺石、段構造、円筒埴輪は一般的にヤマト王権の象徴とみなされることが多いために、これらが伴っていない秋葉山古墳群の被葬者は、大和王権のなかでも地位が低かったなどとみなされていますが、果たして、そうなのでしょうか?
まず、前方後円墳の葺石は、弥生時代の出雲地方に築かれていた四隅突出型古墳がルーツで、円筒埴輪は弥生時代の吉備地方がルーツです。そのため、これらの勢力を統合もしくは連合したものがヤマト王権であると説明されますが、単に文化的影響が重なり合っただけかもしれません。
そうすると、関東の秋葉山古墳群は、出雲や吉備からの距離も遠く、その文化的影響から遠かったと考えることもできます。
さらに、秋葉山古墳群の不思議なところは、同じ場所に、異なる形態の古墳が築かれていることで、まず3世紀に、纏向型の前方後円墳の第三号墳と前方後方墳である第四号墳が築かれ、3世紀末から4世紀初めにかけて前方後円墳である第二号墳、4世紀に方墳である第五号墳と前方後円墳である第一号墳が造営されています。
一般的に、前方後方墳は、前方後円墳のヤマト王権に対立する勢力の古墳だと説明されることもありますが、この秋葉山古墳群においては、それらが共存しているのです。
3世紀は、馬を軍事用に使った痕跡はありません。馬を乗りこなすための馬具や鎧などの遺物は5世紀以降に出現しています。弥生時代から鉄道具の遺物はでていますが、軍団を鉄製品で武装させるほど鉄製品の大量生産技術(鋳鉄技術)は、5世紀以降、鋳鉄の鋳型となる須恵器の製造が可能になってからであり、鉄の矢尻が大量に出土するのも5世紀以降です。
すなわち3世紀は、軍団に武器を持たすとしても、おそらく石器の矢尻を使う弓矢が主力でしょう。この程度の軍事力で、奈良の王権が日本列島の東から西まで、長期間にわたって支配し続けることなど、果たして可能でしょうか?
共通文字もなかったので官僚組織も築けない。長期間にわたってヤマト王権のルールを広範囲にわたって徹底することができたとは考えにくいのです。
自律分散型のネットワーク
私たちは、日本の古代に関して、「ヤマト王権の支配による中央集権的国家が存在した」という教育を受けていますが、当時の実態は、各地の実力者が独自のコスモロジーを持ちつつ連携する、「自律分散型」の社会だったのではないでしょうか。
一つの巨大権力が全体を統制するのではなく、複数の勢力が交流し、協力し合ったり、対立したり、時に仲立ちを立てながら流動的に秩序を保っていたと考える方が、古代の様々な謎を解き明かすうえで理にかなっていることが多くあります。
秋葉山古墳群の真南6.5kmのところに弥生時代の神崎遺跡があります。ここは寒川神社から東北に3.5kmのところです。
神崎遺跡は、弥生時代後期にあたる西暦200年頃の環濠集落遺跡ですが、ここから出土した土器の95%が、東三河(豊川周辺)の様式だという特徴があります。あきらかに西から移動してきた人々がここに住み着いていたわけですが、その期間はごく短かったことがわかっています。
しかし、その後すぐ真北6.5kmのところに秋葉山古墳群が築かれていますので、海岸線の変化が居住地の変化につながったのかもしれません。
この相模川東岸の古代世界のなかで、もっとも古い痕跡を残しているのが、寒川神社の真北16kmほどのところの田名向原遺跡で、ここは石器時代(約20,000年前-18,000年前)から古墳時代までの複合遺跡です。
旧石器時代の石器製作の痕跡があり、さらに、石器の石材として、長野、伊豆、箱根の黒曜石が見つかっており、各地と交流があったことを示しています。
この場所から発見された炉跡、柱穴など建物跡は、約20,000年前のものであり、これは、日本列島で10例程度だけ確認されている日本最古級のものです。
天体と地脈が交差する場所
さらに、田名向原遺跡から真北7.5kmの町田市に、縄文時代中期中葉〜後期前葉の竪穴住居跡67軒が出土した遺跡があり、ここにストーンサークルが存在します。(田端環状積石遺構)。
ここは、縄文時代の土器工房と考えられている多摩ニュータウンNo.245遺跡(現在は小山白山公園の地下)に隣接しています。
町田市には、800ヶ所もの縄文遺跡が確認されています。
ストーンサークルは、埋葬施設が併設され、祭祀場だったと考えられていますが、西日本には見られず、北海道から東北、東日本に存在します。
この建造物は、日本オリジナルのものではなく、中央アジアのバイカル湖周辺のアファナシュボ文化圏で紀元前3000年頃に築かれていました。
日本のストーンサークルは、紀元前2000年から紀元前1000年頃に築かれており、縄文時代と弥生時代の境目にあたります。
また、町田の田端環状積石遺構もそうですが、ストーンサークルが築かれている場所からは、酒器のような注ぎ口土器が出土しているところが多く、これは一般的に青森の亀ヶ岡式時が有名です。亀ヶ岡式土器は、沖縄まで流通しており、遠隔地との交流の証となっており、ストーンサークルもまた、そうした文化的交流を示しています。
注ぎ口土器は、一般的にイメージを共有されている縄文土器と、かなり異なったデザイン様式であり、同時期(紀元前1000年頃)では、日本にかぎらず、ペルシャや中国でも同様の土器が作られており、ストーンサークルと共に日本にもたらされたものではないでしょうか?
町田の田端環状積石遺構は、丹沢山地や富士山も見渡すことができる場所に築かれていますが、冬至の日に、神奈川県の最高峰である蛭ケ岳(1673m)の山頂に太陽が沈みます。
田端環状積石遺構を真西に相模川にそって行けば、甲府盆地の笛吹市に至ります。そして東北に10kmのところ、多摩川流域の国立には、全国的にも珍しい、4本の巨大石棒が一緒に埋められている緑川東遺跡があります。この縄文遺跡において、石棒と一緒に埋められている土器に、岡山と京都の様式のものが含まれています。その理由として、戦いの勝利者の戦利品であるという説明もありますが、この場所は祭祀空間ですから、遠く隔てた世界からもたらされたものには強い霊力が備わっていると、当時の人々が考えていたのかもしれません。
海を渡って遠隔地と交流する場合、東は房総半島、西は伊豆半島の沿岸にそって移動してくると、相模湾が上陸地として最適で、その真ん中を流れる相模川が、関東の内陸部への通り道になっていたことでしょう。この川にそって非常に多くの古代遺跡が集中している事実が、そのことを示しています。
相模川下流に鎮座している寒川神社は、古代世界において、四方八方から人々がやってくる場所に築かれており、さらに、真西に富士山がそびえています。この東西のラインは、東に行けば房総半島の玉前神社が鎮座していることで知られ、富士山から真西にラインを伸ばしていくと、伊吹山や出雲大社につながっています。

相模川の東岸の縄文集落や古墳群は、西側の富士山や丹沢山塊の光景が意識された場所に築かれており、田端環状積石遺構では、冬至のラインと蛭ヶ岳の位置が重なっていることから、古代人が、天体の動きにも強い関心を示していたことがわかります。
さらに、相模川流域は、日本列島の下に存在する巨大プレートの境目で、大地のエネルギーが凝縮した断層地帯であり、古代から、大地震の引き金にもなってきました。
寒川神社は、遥かなる古代から連続する人間の営み、地脈のエネルギー、西に聳える丹沢山塊や富士山を望む光景、天体の動きを意識せざるを得ないロケーション、そこに高句麗など遠隔地からもたらされた新しいコスモロジーなどが融合し、幾層ものレイヤーとして重なり合ったところに築かれています。
この神社が、日本唯一の八方除けの祈祷場所となっているのは、それらの歴史、地理、地勢などの要因が、この地に高密度で凝縮しているからかもしれません。
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2月28日(土)、3月1日(日)に東京で、3月28日(土)、3月29日(日)に、京都でワークショップを行います。
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