宇宙秩序と自己の内省:八方除の真価
神奈川県寒川町にある相模国一之宮、寒川神社は、全国唯一の八方除の守護神を祀る神社として知られています。
寒川神社の八方除けは、一般的には、四方八方からの災い(凶事)を防ぐための祈祷と捉えられており、近代合理主義の価値観に覆われた現在でも、全国から多くの人々が訪れ、芸能人や有名人の参拝者も多いことで知られます。
この八方除けは、占術などにも用いられる陰陽五行の「方位」に対するコスモロジーと、日本の祓いや清めの思想が、合体したものです。
東西南北などの方位には、東(木)、南(火)、西(金)、北(水)、中央(土)といった特性と意味があり、それらのエネルギーが互いに影響し合うことで世界のバランスが保たれているという考えが陰陽五行の根本にあります。これは、人間が抗えない自然界のバイオリズム。太陽が昇り沈むように、個人の意志を超えた大きな宇宙秩序(コスモロジー)が存在することを認め、それに身を委ねるという知恵です。
流れに逆らって泳げば疲弊しますが、流れに乗れば遠くへ行ける。
それに対して、祓いや清めは、人間の倫理的な姿勢であり、人間行為に対する自分自身の手による修正の意味合いがあります。
祓いは、蓄積した「穢れ(気枯れ)」を取り除き、元の清らかな状態に戻すプロセス。
わざわざ寒川神社に出かけて行き、「八方除け」の祈祷を行うのは、個人の意思を超えた大きな宇宙秩序を、どうにかするためではなく、「自分の欲や慢心が原因で、運気の流れを乱してしまうことがないように」という内省が含まれてこそ、祈祷に意味がでます。
この行為は、謙虚さへの回復儀礼であり、「自分の力だけで生きているのではない」という驕りへの制動として機能します。
祈祷を通じて「罪・穢れ」を祓うことは、肥大化した自己(エゴ)を一度リセットし、謙虚な姿勢を取り戻す儀礼なのです。
多くの芸能人や著名人が寒川神社の祈祷を受けていたのは、ご利益を願ってというよりも、世間の注目を集めやすくて、ともすれば慢心に陥りがちな自分を振り返って身を慎むことこそが、末長く栄えるために大事なことだったからでしょう。(今では、芸能人や著名人が訪れる聖域だからという理由で、やってくる人も多いと思われますが。)
寒川神社の八方除けが、信仰として根付いているのは、個人の意志を超えた大きな宇宙秩序を元にした陰陽五行と、人間が、肥大化した自己(エゴ)によって運気を乱してしまわないように自らの穢れを祓うという自制機能が融合しているからです。
この二つが融合していることによって、「運が悪いのは環境のせいだ」と腐ることもなければ、「全ては自分の能力不足だ」と追い詰められる必要もない。
八方塞がりに陥っている時でも、「今は宇宙のサイクルとして停滞期であり、同時に自分にも少し驕りがあった。だから一度清めて、流れが良くなるのを待とう」という精神状態へと導かれる。
今、私が、ここで書きたいのは、こうした寒川神社に伝わる八方除けの分析ではありません。
寒川神社の八方除けは、災いを「避ける」という消極的な意味以上に、自らの立ち位置を確認するという意味合いがあるのですが、なぜ、この場所に、そういった聖域が形成されたかを考える必要があるのです。
地表の「割れ目」を鎮める重石
まず重要なことは、寒川神社が鎮座する場所です。
この相模川下流域は、相模湾から内陸部へと続く巨大なエネルギーの通り道で、北アメリカプレートとフィリピンプレートのあいだの相模トラフの影響をダイレクトに受ける、まさに地表の「割れ目」に該当します。
ここにある相模断層と寒川断層は、古来、幾度となく巨大地震の引き金になり、関東大震災や、江戸時代の元禄大地震など、歴史上の大地震も引き起こしました。
寒川神社が「相模国一之宮」として、また「名神大社」として極めて高い格式を与えられたのは、この強大な大地のエネルギー(災厄)を鎮めるための「重石」としての役割を期待されたからだと考えられます。
高句麗の叡智と「星の視点」
そして、西暦663年の白村江の戦いの後、新羅によって滅ぼされた高句麗の人々が、数多く日本に移住しましたが、その場所が、この相模川の下流域。現在の寒川神社の対岸の大磯です。
同じ頃、奈良盆地には、高松塚古墳やキトラ古墳が築かれましたが、これらの古墳には、陰陽五行と関わりの深い天文図や四神相応図が描かれています。そして、天文図は、日本から見た天体ではなく、高句麗の地から見たものであるという説があり、高松塚古墳の壁画の女性像の衣装も、高句麗系であるという説があります。高句麗は北方の騎馬民族の流れを汲み、星の動き(天命)を読み解く技術に長けていました。
この高句麗の人々が、相模川の下流域に居住することになったことで、寒川神社に陰陽五行の性質が備わるようになったのかはわかりません。
そもそも、この地域の特殊な地勢的要因を踏まえて、当時の朝廷が、高句麗の人々を、計画的にここに移住させた可能性もあります。
というのは、大磯に高句麗の人々が移住してまもない頃、ここから真北に位置する埼玉県日高が、高句麗の人たちの拠点となるからです。
西暦716年、埼玉の日高に「高麗郡」が設置されました。このとき、東国7カ国(駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野)に散らばっていた高句麗人1799人が集められたと『続日本紀』に記されています。
日高は、寒川神社の真北60kmのところで、寒川断層から続き群馬の赤城山の方まで伸びる八王子構造線で、関東平野と関東山地を東西に隔てる断層帯の上です。寒川と日高は、関東平野の西端の「割れ目」でつながっているのです。
この「割れ目」の西側は、数千年前から数億年前の古くて硬い岩盤、東側は数百万年前から現在にかけて積もった柔らかい地層の関東平野です。
そして、日高の高麗神社は、ここを訪れた斎藤實、若槻礼次郎、浜口雄幸、鳩山一郎といった政治家が相次いで首相に就任したことで知られており、出世神社として政治家だけでなく経済界や芸能界からも多くの参拝者が訪れます。作家の太宰治や坂口安吾といった文豪も、ここを訪れました。東京地検特捜部の幹部たちは、大型の政界捜査の前に訪ねることが多かったと言われます。 2017年には、当時の天皇・皇后両陛下が私的に訪問されました。この渡来系の神社を参拝する皇室も多いそうです。
この神社のお守りは、「三足烏(さんそくからす)」のモチーフが用いられています。日本では、三足鳥は、八咫烏(やたがらす)として知られていますが、もともと三足烏は、高句麗の王の象徴でした。
大地の裂け目で「生」を整える。
関東平野の西の端を南北に走る構造線にそって、埼玉の日高には高麗神社が鎮座し、相模川下流域に寒川神社が鎮座し、ともに、政治家、経営者、芸能人といった独立自尊の精神で生きている人たちが、多く参拝や祈祷のために訪れています。
一体何故なのか、明確な理由はわかりませんが、事実として、そうなっています。
寒川神社の八方除けの祈祷が象徴しているのは、個人の意志を超えた大きな宇宙秩序に対する配慮と、自らの行いを顧みて、穢れを祓うこと。
日本は世界で最も天災の多い国です。人間の努力は、天災の前で無力であることを、何度も痛感させられてきたことでしょう。
だからといって、努力をしても無駄だからと頽廃的な気持ちになり、傲慢不遜になって自らを顧みないと、悪循環の輪から抜け出せなくなります。
古代の日本人は、こうした経験を踏まえ、健やかに生きる知恵として、外来の思想を取り込みながら、日本ならではの生きる哲学を整えました。
構造線という、人間の力を超えた宇宙のエネルギーを直に感じ取れる場所で、自らの立ち位置を確認し、慢心を捨てて流れに身を委ねる。寒川神社の八方除けは、私たちが激動の時代を健やかに生き抜くための、最も古くて新しい知恵なのかもしれません。
ーーーーーーーーーーー
新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
2月28日(土)、3月1日(日)に東京で、3月28日(土)、3月29日(日)に、京都でワークショップを行います。
お申し込み、詳細は、ホームページアドレスからご確認ください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー