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第1652回 弓・鳥・目をめぐる、時空を超えた魂のフィールドワーク

 この10年、私は古代世界を探求し続けていますが、過去の事実を追っているわけではなく、現代人よりも古代人の方が大事にしていたと思われる”魂”を追いかけています。
 なので、邪馬台国論争とか、日本人はユダヤ人が起源とか、ペトログラフは古代文字云々という話には興味がなく、むしろ嫌っています。
 そうした論争が好きな人の言葉や思考は粗く、荒く、古代の探求が、むしろ魂の問題とかけ離れていくように感じられるからです。
 近代合理主義世界のなかで、”魂”のことを取り上げると、スピリチュアル好きですか?と問われそうですが、スピリチュアル好きの人の言葉や思考も、とても粗く、真の意味での魂の問題から遠ざかっているように思われ、私はあまり好きではありません。
 神話や伝承は、事実を追いかけても理解から遠ざかっていきますので、魂のことを踏まえて、向き合う必要があります。
 たとえば、第11代垂仁天皇の皇子、ホムツワケは口がきけなかったとされ、ある日、一羽の白鳥を見た時、初めて口をきき、そのため天皇が、その白鳥をアメノユカワナタに追いかけさせたというエピソードがありますが、この描写を事実、もしくは作り話とみなしても、真相に届くことはありません。

魂の運搬者である「鳥」と、弓矢の関係

 古代、鳥(特に白鳥)は、「天と地を行き来する魂の運搬者」と見なされていました。
 ホムツワケが「言葉を発せなかった」のは、魂が不在だった、あるいは何らかの霊的な呪縛にあったことを示唆しています。
 そして、この時、白鳥を追いかけたアメノユカワタナの末裔が、鳥取氏となりました。
 鳥取氏の職能は、単に食用や羽毛のための鳥捕りではなく、「魂を連れ戻す」というシャーマニックな側面があったと考えられます。
 歴史上、鳥取氏のなかで重要な人物は、10世紀、平将門を鎮圧した藤原秀郷です。
 秀郷は、藤原氏を名乗っていますが、平安京から栃木県に国司として赴任した藤原氏が、地方豪族の鳥取氏とのあいだに生まれた子の血統であり、父も祖父も、母方が鳥取氏に連なります。家系としては「藤原」を名乗っていますが、実態は、栃木の鳥取氏の勢力を背後に携えているのです。
 この藤原秀郷の末裔で歴史上重要な役割を担っているのが、奥州藤原氏と、那須与一の伝承で有名な栃木の那須氏です。
 奥州藤原氏は、源義経を育て、最後は義経を匿ったことで滅びました。
 那須与一は、伝承のなかで源義経と若い時に出逢い、生涯、義経に仕えることを誓い、屋島の合戦で、船上に掲げられた扇を弓矢で射落とすという平家物語の一シーンがよく知られています。

 藤原秀郷と、那須与一に共通するものとして「弓矢」があります。
 「御伽草子」の描写では、平将門には7人の影武者がいて、将門の体は鉄でできていて矢も通らないとされました。しかし、秀郷は、将門の影武者を見抜いて「本物」のこめかみを射抜いたのです。
 また、那須与一は、船の上で平氏方の貴族の女性が掲げる扇の的を射抜きました。
 この二つの物語、たまたま武器として弓矢が使われたたわけではありません。
 弓には、矢が当たるべき中心点があります。これを「正鵠」と呼びますが、ここを射抜くことは、混沌とした状況の中で真実(神意)を見い出すことと同義でした。
 そこからきたのが「正鵠(せいこく)を射る」という言葉で、物事の要点や核心、急所を的確に捉えるこという意味で使われます。
 そして「正鵠」の鵠は、古語では「うぐい」ですが、白鳥のことです。
 鳥取氏の祖であるアメノユカワナタが、口のきけないホムツワケのために白鳥を追いかけたという神話が、ここで重なってきます。
 鳥取氏の系統である那須与一が「扇の的」を射た際、彼は目を閉じて神仏に祈り、そのあと見事に的中させましたが、これは「視覚」ではなく、「霊的な確信(正鵠)」で射たことを強調しています。
 藤原秀郷平将門を射抜いた物語も、「叛逆者」=迷走する魂を弓矢で射止めて秩序を戻すという呪術性が、背後に秘められているのです。
 こうした物語は、目に見える的(敵)を撃退することに重きが置かれているのではなく、混沌(平将門の乱や、平家の横暴)に終止符を打ち、あるべき真実を現出させることが意図されていて、そうした行いこそが、「正鵠を得る」ということ。その役割を担うものが、「鳥」と縁の深い勢力であり、その道具として弓矢が相応しいのです。
 弓道の世界では今でも「正射必中(正しく射れば、必ず当たる)」と言われますが、これは「テクニック」の話である以上に、「正しい心で見つめれば、真実は自ずと現れる」という哲学に近いものです。
 ゆえに、弓矢は、「道しるべ」としても扱われ、「矢」がどこに刺さるか、あるいはどのように飛ぶかによって神の意志を占う「弓弾(ゆはず)の占い」などが行われていました。
 刀は「身体の延長」として肉体的な力を振るうものですが、弓は、「視線と意志の延長」として、遠くにあるものを射抜くための道具です。

見ることと、真相を掴むこと

  遠くにあるものを「じっと見据えて捉える」という行為は、正鵠を得る=真相を掴むうえで、とくに重要なことです。
 そのように「じっと見据えて捉えること」=「見抜くこと、見出すこと」が古代において、呪術的な力を持つと信じられていました。
 古代の祭司道具のなかで、とくに目が強調されたものとして、遮光器土偶があります。
 一般的に、この土偶縄文文化を象徴するものとして扱われますが、実際には、紀元前800年以降のものであり、縄文というより、ほぼ弥生時代のものです。
 そして、不可思議なことに、この土偶の目の部分の断片だけが、日本のいくつかの場所で出土しています。

神戸の篠原遺跡から出土した遮光器土偶の目の部分

 一つは、埼玉県の氷川女体神社の近くの馬場小室山遺跡。ここは、現在、見沼という地に接していますが、古代、見沼は東京湾の一部で、馬場小室山遺跡は、外海への出入り口でした。
 もう一つは、神戸の西求女塚古墳という3世紀に作られ三角縁神獣鏡が多く出土したの大型の前方後方墳の近くの篠原遺跡。この近くには銅鐸が14個も出土した桜ヶ丘遺跡もあります。
 そして、岡山と広島の県境の井原市です。
 このなかで、不思議なことに、井原と神戸の遮光器土偶の目の出土地から近いところに、那須与一の墓があるのです。

 遠く隔てた場所を、正確につなぐ力

 現在、私が把握している那須与一の墓が、日本に5か所あります。那須氏の本来の拠点である栃木県の大田原市、京都の即成院、神戸の須磨にある碧雲寺宗照院、熊本の大見口、そして岡山と広島の県境の井原の山中。先週、井原を訪れ、この半年で、この5つの墓の全てを確認してきました。
 この五か所のうち、井原を除いた四か所が、栃木から九州までを結ぶ冬至のライン上に位置しています。
 岡山の井原の那須与一の墓だけが、この冬至のライン上にはないものの、須磨の碧雲寺宗照院から真西に142kmのところです。
 さらに、那須与一が扇を弓矢で射抜いた褒賞として得た所領として、岡山の井原、埼玉の行田、長野の松本、福井の小浜、京都府南丹町の日吉、東近江の五箇荘などがあります。
 福井の小浜は、那須与一の墓がある京都の即成院の真北57km、南丹町の日吉と東近江の五箇荘は、北緯35.15の同意度。さらに、京都府南丹町の日吉と長野の松本が冬至のラインで、このラインの延長上が、栃木の那須温泉神社ですが、ここが那須与一源義経が出会った場所。
 このように、那須与一の関連地は、かなり正確な測量によって繋げられています。

赤印が那須与一の墓。黒が那須氏の所領。水色が、那須温泉神社(源義経那須与一が出会った場所)
赤印が、那須与一の墓。黒印は、那須氏の所領。

 遠く隔てた場所を、正確に結びつける技術や知識は、当然ながら、遠隔地の行き来を自由に行なった人たちが備えていたもので、それは縄文時代から日本列島の様々な場所を結びつけていた水上交通関連の人々だと思われます。縄文時代糸魚川翡翠が北海道や沖縄から出土し、八ヶ岳の黒曜石もまたしかり。河川や海の道を通って、古代の人々が、日本各地を自由に行き来していたことは明らかです。

 岡山の井原の標高234mの御領山の頂上付近には、240基もの古墳群が確認されており、かつては870基もの古墳があったが多くは破壊されたようで、これは西日本最大とされます。現在確認されているもののうち220基が、6世紀後半から7世紀前半(飛鳥時代)に築かれた横穴式石室を持つ円墳か方墳で、古いものは、3世紀後半に遡る前方後円墳も確認されています。

 さらに、井原の平野部にも、西日本最大級の集落跡、御領遺跡があります。現在は市街地になっていますが、遮光器土偶の目以外に、重要な出土品が確認されており、それは海との関連物です。
 縄文時代の竪穴建物からは香川県産の安山岩の自然石や小片が大量に出土し、海を越えて届いた原材料をこの地で鏃(やじり)等の製品に加工し、川や陸路を使って内陸へ運んだと考えられています。また、船が描かれた弥生土器は、愛媛県で製作されて運ばれてきたものです。国内で最も古い屋形船が描かれた土器の破片もあります。
 2016年の調査では、縄文時代晩期の竪穴建物から注口土器(ちゅうこうどき)が2つ出土しました。これは、一般的に亀ヶ岡式土器と呼ばれるもので、西日本では出土例自体が少ないものです。東北地域では、ストーンサークルがある場所から多く出土しており、その実用的な形は、従来の縄文土器の雰囲気とは大きく異なっており、大陸との交流が伺えます。
 なぜ、この井原が、古代から重要な場所だったのか? 
 古代における交通の要所だったことも考えられますが、ここが日本有数の熱水鉱床の場所であることも重要です。 
 井原鉱山、三谷鉱山、甲山鉱山など、近代に操業していた金や銅の鉱山があり、古代の記録はありませんから実証できませんが、鉱脈があることは間違いないです。
 那須氏の関連地は、栃木の那須が「那須のゆりがね」として金や銅で知られていますし、那須氏が九州で最初に移住した椎葉村の十根川集落には銅山があります。京都府南丹町の日吉でも砂金がとれます。
 福井の小浜や長野の松本は、古代から海人勢力と深い関わりがある場所ですが、鉱物資源は、海上交通で運ばれたと考えられます。

真実を見抜く(見い出す)力こそが、魂の力。

 思考が跳躍しているかもしれませんが、弓矢と同じく、鉱物資源の開発と、海人交通においても、「真実を見い出す力」がとても重要です。
 鉱物というのは、道を歩けば落ちているわけではなく、鉱物資源が隠れている山や地層などを見極める目が大事です。
 海人交通においても、潮の流れや、天候の変化を読む力は、必須です。
 いずれも、物事の表面を見るのではなく、洞察する力。
 弓矢で「正鵠」を射抜くことは、混沌とした状況の中で「正解」=真実(神意)」を見い出すことと同義ですが、それは、洞察力です。
 鵠=白鳥は、魂を運ぶもので、その白鳥を捕えることが、「正鵠」を射抜くことと等しいのならば、真実(神意)を見出す力を備えることが、魂とつながる。現代的な言い回しだと、肝心なこと(魂)のツボを抑えるということになるでしょうか。
 だから、形だけ整えて、肝心なことが抜け落ちている状態を、「仏作って魂入れず」と表現する。
 岡山の井原や、神戸の篠原遺跡などで出土した遮光器土偶の目は、土偶が作られた時代に運ばれたものではなく、後の時代に、この土偶の目を見た時に強いインスピレーションを抱いた人たちが、「真実を見出す」=「正鵠」を射抜く=「その時々の風潮に流されず大事なことの本質を担う」といった呪的意味をもたせて使用したのかもしれません。
 この遮光器土偶の目の出土地が、鳥取氏の系統である那須氏関連地と重なっていることから、この勢力が、弓矢とともに、この遮光器土偶の目を、自分たちの魂と結びつけて、迷いを断つための霊器として用いたのではないかと私は想像するのです。

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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
2月28日(土)、3月1日(日)に、東京でワークショップを行います。

3月28日(土)、3月29日(日)に、京都でワークショップを行います。
お申し込み、詳細は、ホームページアドレスからご確認ください。

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