この10年のあいだ、私はずっと古代世界を探求してきましたが、今は「古代と中世の境界」に強い関心があります。
古代世界と、中世以降の近代・現代を隔てるものは何か。
私は、古代世界とは「万物の尺度を人間に置かない世界」であり、中世以降は、しだいに「人間を尺度にする世界」へと移行していく段階なのではないかと考えています。
西欧世界において、この分岐点について考察を深めたのがジュリアン・ジェインズです。彼は著書『神々の沈黙』の中で、2800年前の『イリアス』の登場人物には自意識がなく、すべての行動は神の命によるものであったのに対し、そのわずか100年後の『オデュッセイア』では、登場人物が自らの意志で突き進むようになっていると指摘しました。3000年前頃にフェニキア人によって発明されたアルファベットという共通文字の浸透が、神の声を聞いていた脳を、自己の意志を持つ脳へと作り替えたというのです。
では、日本においてこの変化はどのように起きてきたのか。それを探る鍵が、京都の辺境(境界)に位置する「岩倉」にあります。
今週の1月30日(金)と31日(土)、岩倉を案内するワークショップとフィールドワークを行います。
京都の岩倉は、古代と中世のつなぎ目。
京都の岩倉は、その名のとおり古代の「磐座(いわくら)」祭祀の名残を伝える場所で、京都において古代と中世のつなぎ目となっている場所です。
世界中どこでもそうですが、辺境は「タイムカプセル」であり、中央では見る影もなくなった過去の残映が色濃く残ります。岩倉の地では現在も山住神社に磐座が祀られていますが、律令時代以降、この磐座信仰は仏教の勢力圏へと組み込まれていきました。
10世紀、岩倉の地に大雲寺が築かれた際に、磐座祭祀はその境内に取り込まれたのです。
大雲寺の創建のきっかけは、971年に比叡山延暦寺で法会があった時、多くの公卿らが五色の霊雲の立ち昇るのを見たことによります。
この時、中納言の藤原文範が山を下り、霊雲の場所(岩倉)に至った時に、石座明神が憑いた老尼と出逢い、この地が観音浄土であると告げられました。このことが天皇の耳に入り、藤原文範によって創建されたのが大雲寺です。
藤原文範は紫式部の曽祖父(式部の母の祖父)にあたります。
岩倉の地の石座明神に導かれて大雲寺が創建されたので、大雲寺の境内に、石座神社が築かれることになりました。
そして、この地が観音浄土であるとされたことから、大雲寺に行基作とされる十一面観世音菩薩立像が、安置されることになりました。
この十一面観世音菩薩立像は、長らく絶対秘仏でしたが、現在、335年ぶりにご開帳されています。(令和7年10月17日ー令和8年4月17日)
古書によれば、この像は、聖武天皇の玉体を映したものとされ、行基が「一刀三礼」の作法で造像されたもので、大雲寺が伝えるところによると、奈良の長谷寺の観音像と一木を共にし、姿かたちも同じで、一木作りで製造したものとされます。
長らく御所に安置されていたものを藤原時平が拝領し、その後、藤原明子(清和天皇の母)が勅により大雲寺に移設安置したと記録されています。
(長谷寺の十一面観世音菩薩立像は、歴史上、何度も焼失して再興されました。現在の日本最大級の像は、室町時代のものです。)
しかし、鎌倉の長谷寺にも、奈良の長谷寺の観音像と一木を共にするという伝承があるため、事実としてそうだったというより、岩倉の大雲寺と奈良の長谷寺が霊的に繋がっていたと解釈した方がいいでしょう。
長谷寺は、平安時代の女性たち(紫式部や清少納言など)も多く参詣した観音霊場でしたが、「隠国(こもりく)の初瀬」として古くから歌に詠まれた場所です。
隠国というのは、文字通り「山々に囲まれて、外からは見えない国」ですが、古語で貴人が亡くなることを「お隠れになる」と言うように、山に隠れることは「死」の隠喩でもありました。
山に囲まれた閉鎖的な空間は、この世とあの世が接する「境界(異界)」と考えられてきましたが、そこは、現世の奥にひらく、神と死者の世界の入口です。
同時に、修験者のように山に隠れて修行し、再び出てくることは「生まれ変わること(再生)」を意味しました。
これが、長谷寺で行われていた「参籠(さんろう/おこもり)」、すなわち一定期間お堂に閉じこもって夢告を待つ信仰へと繋がります。
そして、長谷寺の十一面観世音菩薩立像は、方形の「大磐石蓋(だいばんじゃくがい)と呼ばれる岩のうえに立っており、これは磐座に降臨した神のようでもあります。
長谷寺がある初瀬山の背後に広がる與喜山(よきさん)は、古代の霊山として崇められており、その山中や周辺には多くの磐座が存在します。
長谷寺の十一面観世音菩薩立像は、古代の磐座信仰が仏教に取り込まれた形とも言えるのです。
さらに、この十一面観世音菩薩立像は、通常の観音像と異なり、右手には数珠とともに地蔵菩薩の持つような錫杖(しゃくじょう)を持っています。
これは、地蔵菩薩と同じく自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他には見られない独特の形式です。これは、「長谷寺式十一面観音」と呼ばれ、岩倉の大雲寺の像も、同じ形式です。
奈良の長谷寺と京都の岩倉は、地理的な条件が非常に似ており、奈良盆地に都が置かれていた時の長谷寺の霊的役割は、京都盆地に都が築かれてからは、岩倉が担うようになったのだと思われます。
岩倉の大雲寺に、長谷寺式十一面観音像が安置され、この寺の境内に石座神社が築かれたのは、長谷寺と同じく、古代の磐座信仰が仏教に取り込まれた形なのです。
心の病と、修験の験力
源氏物語で、光源氏の最愛の妻、紫の上が少女だった頃、「わらわやみ」を抱えた光源氏が、治療の加持祈祷を受けるために大雲寺を訪れた時に、二人は出逢いました。
「わらわやみ」についての解釈は色々あり、マラリアという説が専門家のなかで通説になっていますが、今日の病名で整理してしまうと、間違いが生じます。
重要なポイントはその症状です。マラリアは重症化すると、原虫に感染した赤血球が脳の微細な血管に影響を与え、血管を詰まらせ、精神的な異常や錯乱、すなわち「気がふれる」ような状態を発症することがあります。
具体的には、意識が混濁し、時間・場所・人の認識ができなくなる。実際にはないものが見える。支離滅裂な発言をする。昏睡状態に陥るといった症状です。
この症状は、心の病においても生じることがあります。
「わらわやみ」に陥っていた時期の光源氏は、夕顔が六条御息所の祟りによって亡くなったショックで寝込んだりしており、現代の心の病の症状を発していたのではないかと私は想像します。
というのは、岩倉の大雲寺は、今でもそうなのですが、紫式部が生きていた時代も、心の病の治療と関わりの深い場所だったからです。
大雲寺と隣接する場所に、冷然天皇の皇后だった昌子内親王の御陵が築かれていますが、冷然天皇は、在位2年(967-969)で譲位しました。その理由は、心の病だったとされます。
夫が病から回復することを願ってか、昌子内親王は、岩倉の大雲寺に通い続けており、この場所に観音院を創建しています。
そして、981年、天台宗の寺門派の拠点だった園城寺(三井寺)の僧、余慶(智弁)が、一門の僧数百人を連れて大雲寺へ移り、その時からここは三井寺の別院となりました。
天台宗の寺門派は、解脱のための修験を重んじており、修験を行わずに密教を理解しようとしていた比叡山の延暦寺(天台宗の山門派)と分離しました。
修験というのは、日本独自の実践宗教です。
「山」という他界に身を投じ、過酷な修行を通じて、「験力(げんりき)」という霊的なパワーを獲得することを目指します。この修行によって得たパワーを、里に降りて加持祈祷という形で人々に還元しました。
長谷寺式十一面観音像が手に持つ錫杖(しゃくじょう)は、地蔵菩薩だけでなく、修験者を象徴する姿でもあります。修験者もまた、衆生を救済するために、各地を行脚したのです。
大雲寺の長谷寺式十一面観音像は行基作と伝えられますが、行基とともに全国をめぐり、各地に溜池などの公共事業を行なったりした人たちを行基集団と呼び、修験者もまたその一員で、行基を守るために側に仕えていたとされます。
修験者が行なった「加持」とは、仏の慈悲の力が人々に注がれる(加)とともに、人々がそれをしっかりと受け止める(持)ことを指しますが、病気平癒、安産、雨乞い、あるいは怨霊退散など、現実世界の具体的な問題を解決するための「実利的な儀式」が、加持祈祷です。
加持祈祷は知識だけでも形は整いますが、それを「実際に効くもの」にするためには、祈祷師自身の精神力や霊力が必要だと考えられました。
比叡山延暦寺は、最澄の時代から、密教の真髄を獲得するための修験の過酷な修行を実践していませんでした。そのことに異議を唱えたのが、讃岐の佐伯氏出身の円珍(空海の甥とされる)です。そして、天台宗は、比叡山に残る山門派と、円珍を宗祖とする寺門派に分裂し、寺門派は、比叡山をおりて大文字山の方に拠点を移しました。その場所に築かれたのが、三井寺です。(現在は山の麓にありますが、かつては山の上の山岳寺院でした。)
この天台宗の寺門派の僧侶、数百人が、岩倉の大雲寺に移ってきたため、大雲寺でも、加持祈祷が行われることになったのですが、とくに、心の病を癒やす効力があると信じられました。
現在も残る垢離場(こりば)という滝は、ここで滝行をすると心の病が回復するとして、全国から多くの信者を集め続けました。
その人々たちが滞在した籠屋(こもりや)=保養所が、現在の北山病院という形に変遷したのです。
現世の囚われからの救いと、巫女の霊性
なぜ、この大雲寺が、心の病と深く関係することとなったのか?
証拠資料はありませんから想像するしかないのですが、ここが古代の磐座祭司の痕跡を残す場所だったからではないでしょうか。
古代の磐座祭司の要にいたのが巫女(シャーマン)です。巫女の神がかった状態は、「わらわやみ」=「気がふれる」ような状態となります。
巫女の神がかりは、現世の常識から見れば「異常」ですが、それは現実世界のしがらみを一掃し、別の世界へアクセスする行為でもあります。
現実の枠組みに囚われて陥るのが「心の病」であるならば、その枠組みを外側から相対化し、俯瞰する「別の視点(メタ認知)」を持つことこそが、回復の道なのではないでしょうか。
自分が生きている今の現実だけが世界の全てではないということを、リアリティをもって体感することは、魂の再生につながります。
時代が、古代から中世へと移るにつれ、大陸から新しい知識教養も流れ込み、かつての巫女祭司は消失していきましたが、新しくもたらされた仏教のなかに、そのエッセンスは継承され、それが修験者による加持祈祷でした。
平安時代初期を代表する僧侶である空海と最澄。空海が、後の時代に神仏に等しい存在として崇められたのに対して、最澄が優れた僧侶にとどまっているのは、「験力(げんりき)」の違いがあったからです。
最澄と違って修験を重んじた空海には、現実世界の具体的な問題を解決する力があったことが、様々な伝承からわかります。
雨乞いなどにおいても、京都の神泉苑で最澄が行なった祈祷は効きませんでしたが、空海が行なうと雨が降ったという記録もあります。
こうした背景を踏まえて、源氏物語のことを考える必要があります。
紫式部が、光源氏と少女だった紫の上の出会いの場所を、岩倉の大雲寺に設定したのは、紫式部に、何かしらの考えがあったことは間違いないと思われます。
光源氏は、まだ幼かった紫の上を、連れ帰りました。
そして、理想の女性に育てて自分の妻にすることを決意します。
幼い彼女がこの地で源氏に見出され、拉致同然に連れ去られた行為は、一種の「神隠し」です。
彼女は実父(人間界の秩序)から切り離され、光源氏にとって神に等しい亡き母の依り代だとも言えます。
光源氏が幼い彼女に執着した最大の理由は、彼が一生追い続け、決して手に入らなかった継母、藤壺の宮に瓜二つだったからでした。
その藤壺も、光源氏の亡き母・桐壺更衣と瓜二つでした。
つまり、光源氏が求めたのは、自分の魂の欠落(亡き母・桐壺更衣の面影)を埋めてくれる存在だったのです。
源氏は、紫の上を「理想の女性」として祀り上げ、自分だけの聖域に閉じ込めました。紫の上は、光源氏の理想を受け止める器として、幼い時から人生を捧げさせられたのです。
紫の上は、 光源氏の奔放な女性関係に苦しみながらも、表面的には嫉妬を抑え、誰に対しても寛容で気高く振る舞いました。生涯、自分自身の自我を押し殺して生きていたのです。
紫の上が背負った悲劇性と、魂の永遠性
その紫の上の最大の苦悩は、子供が産まれなかったことです。
これもまた、源氏物語がフィクションであるゆえ、紫式部の考えが反映されています。
紫式部は、源氏物語に登場する女性たちに、深い意味を持たせて描いています。
たとえば光源氏と結ばれた女性たちのなかで、その子孫がもっとも繁栄したのは、光源氏が六条院の冬の館に住まわせた明石の君です。
明石の君は、住吉神に深く帰依する明石入道の娘で、二人の出逢いの舞台である須磨や明石における描写は、海人の気配が濃厚です。
古代、海人勢力は、権力の表には立ちませんでしたが、娘を有力者に嫁がせ、二人のあいだにできた子供を母の実家で育てています。
このことは、たとえば神話のなかで、豊玉姫と山幸彦のあいだに産まれたウガヤフキアエズを、実家に帰ってしまった豊玉姫に代わって、妹の玉依姫が育てる物語に象徴されています。
紫式部は、光源氏と結ばれた明石の君に、そうした古代の海人勢力の特性を象徴させて描いています。
明石の君が産んだ明石の姫は、東宮(皇太子)に嫁ぎ、二人のあいだに生まれた子供達が、源氏物語の後半の宇治十帖の主役になるのです。
また、光源氏は、彼が関係した女性たちの中で最も家庭的で、恨み言を一言も言わずに源氏に安息を与えていた花散里を住まわせていた六条院の夏の館に、新たに玉鬘を迎え入れました。彼女は、六条御息所の怨霊によって亡くなってしまった夕顔の娘です。玉鬘は、長谷寺参詣の途上で、かつては夕顔の侍女で、その後は光源氏に仕えていた右近に再会し、光源氏の娘として引き取られたのです。
光源氏が京都の岩倉を訪れたのは、夕顔の死によって心の病に陥ったからですが、その夕顔の遺児である玉鬘は、岩倉と同じくこの世とあの世が接する「境界」の長谷寺というゲートを通って、あたかも夕顔の魂の復活のように光源氏のもとにいたるのです。
紫式部は、「夕顔の死」を起点とした生と死の円環構造を、岩倉と長谷寺という二つの「隠国(こもりく)を媒介に見事に描きだしています。
光源氏が岩倉の地で出逢った紫の上に子供が産まれない物語設定なのは、紫の上が、光源氏にとっての巫女だからです。紫の上は、光源氏の叶わぬ思慕をおろす依代でした。そして巫女は生贄でもあります。
光源氏が正妻としたのは、最愛の紫の上ではなく、世間の義理を果たすために引き受けた女三宮でした。女三宮は朱雀天皇の娘で、娘の将来を案じた朱雀天皇が、光源氏に後見人になってくれるように依頼したからです。
光源氏は、愛してもいない女三宮を正妻とし、さらに女三宮は子を宿しますが、この子(薫)の父は、光源氏ではなく、光源氏が将来を期待していた若い柏木との密通によるものでした。しかし、そのことは光源氏の胸のうちにとどめられ、紫の上も、世間も、真実を知ることはありませんでした。
自分の子を持たない紫の上は、さらに光源氏の希望で、明石の姫君の教育係となります。光源氏に深く愛され信頼されていても、紫の上は、「正当な秩序の外の存在」でしかなかったのです。
光源氏が、この紫の上を六条院の春の館に住まわせたように、紫の上は、光源氏と出逢った時から、桜の季節のイメージが重ねられています。
桜と巫女は、日本の精神史において深い重なりをもっており、いずれも神を招き、神を依りつかせるものです。
「サクラ」の語源には諸説ありますが、民俗学的には、「サ」は田の神、あるいは穀霊を指す古語で、「クラ」は、磐座(岩倉)ですから、神が鎮座する場所。
すなわち桜は、「田の神が山から降りてきて、一時的に宿る依り代」を意味し、巫女もまた、神を自分自身の体に降ろし、その言葉を伝える「生きた依り代」です。
どちらも、目に見えない神霊を現世に繋ぎ止めるための、聖なる受容器。
そのうえで、「自分を打ち捨てて生きる」という巫女の在り方は、散っていく桜の潔さと重なります。
さらに、桜は古来、死者の魂が集まる場所、あるいは異界への入り口とも考えられてきました。 桜の下で行われる宴(花見)は、もともとは死者の魂を慰め、その生命力を取り込む儀式的な側面があります。これは、巫女の役割に通じます。
巫女が「生者の世界」と「死者(神)の世界」の境界に立つのと同様に、桜もまた冬(死)から春(生)への転換の「境界の象徴」なのです。
紫の上が子を産めず、早世していく運命は、実を結ぶことよりも「咲くこと(神の依り代であること)」に全霊を捧げた巫女的な生涯を感じさせます。
紫の上は、世間の枠組みの中で苦悩に陥ったため、そこから逃れるために出家を強く望みますが、 光源氏は、それさえも認めませんでした。
彼女が俗世を捨てて解脱することは、源氏にとっての「救済の喪失」を意味したからです。
源氏物語では、紫の上は、自己犠牲の巫女的な役割を背負わされていますが、源氏物語の読者の心にもっとも強く記憶されている女性が、紫の上です。
それは、光源氏が理想の女性として育てたことと、彼女の切ない悲劇性が重なっているからこそであり、一方だけでは、これほど彼女の魂が永遠性を帯びることはなかったでしょう。
紫式部の本名は伝わっていませんが、当時の宮中では、藤式部と呼ばれていたようです。
しかし、源氏物語の登場人物である紫の上が、当時の貴族社会でも人気者になって、紫の上の物語の作者ということで紫式部と呼ばれるようになったとされます。(紫式部が生まれたとされる地域は、京都市北区の紫野だったからという説もあります。)
紫は、古代から神聖な色。光源氏が紫の上に面影を投影した藤壺の「藤」も紫色です。
紫色は、古代では非常に貴重であり、そのため、紫色は高貴さと神聖さを象徴していました。 飛鳥時代に制定された冠位十二階では、紫色が最上位の色です。
道教では、北極星を神格化した「紫微大帝」が最高神として崇められています。
紫式部は、この神聖なる色の名を、紫の上に与えました。それは、この女性の在り方が、源氏物語の中で特に重要な意味を担っているからです。
今の現実を相対化し、俯瞰する眼差し
紫式部にとって執筆とは、単なる創作活動ではなく、歴史や時間の底に沈殿している「語られざる声」を汲み上げ、今(平安時代)に翻訳して差し出す「神降ろし(物語降ろし)」の儀式であり、源氏物語が、世紀を超えて読み伝えられてきた真相は、そうした霊性がそなわっているからです。この物語は、決して、光源氏の奔放な女性遍歴を、興味深く扱ったものではありません。
光源氏が、紫の上と出会った場所は、その当時から、心の病を治癒するための加持祈祷の聖域でした。
心の病というのは、現世社会の閉塞的な枠組みが世界の全てであるかのような思い込みを持つことで、そこでの軋轢や葛藤が心の大きな負荷になってしまい、そのために起きやすいものです。
生老病死もまた、社会的通念の狭い枠組みの外に出られれば、それほどの苦にはならないかもしれません。
人間はいつの時代も、自分の見ている景色こそが「現実」だと思いがちです。しかし、それは常に全体の一側面に過ぎません。その呪縛から自由になるために必要なものが、理屈だけでなく実践と実感を通して「別の視点」を持つこと—すなわち「メタ認知」の力です。
紫式部が生きた時代、京都に都が築かれて200年が経過し、貴族たちが暮らす都市の中心部では、その時代の硬直した価値観に覆い尽くされていました。
岩倉は、平安京の中心からは離れており、異郷との境界であり、それは地理的なことだけでなく、歴史的にもそうだったと思われます。
すなわち、当時の岩倉は、過去の時間と、今の時間が重なり合う場所。そういう現場は、自分が生きている今の現実を相対化し、俯瞰する眼差しを獲得しやすい。
衆生を救済するために、長谷寺の十一面観音像が古代の磐座の上に立っていることや、岩倉の十一面観音像が安置された大雲寺の境内に磐座神社が祀られていることなどは、まさしく、過去の時間と今の時間の重なりを象徴しています。
岩倉という、過去と今、あの世とこの世が重なり合う現場に立つこと。そこにある「隠国」(こもりく)の構造を理解すること。
「隠国」というのは、「隠れる場所」であると同時に、社会のノイズを遮断するところです。そして、「母胎」のような時空であり、再生のゆりかごなのです。
社会という「表の世界」から一時的に隠れる(=死ぬ)ことは、古い自分を脱ぎ捨て、新しい生命力を蓄えるためのプロセスです。
俗世の価値観にどっぷり浸かっているときには見えなかった「世界の本当の姿」を、一歩引いたところから眺めることが、魂の再生につながります。
かつての日本には、こうした「隠国」のような、世俗の論理が及ばない余白地帯が各地にありました。
現代社会の苦しさは、この「隠国」=逃げ込める余白が徹底的に効率化や監視によって潰されてしまっているからでもあります。
しかしそれでも、社会の枠組みから少し外れたところで、現世での衣をいったん脱ぎ捨てて、現世の価値観を相対化すること。
そうした通過儀礼が、きっと新しい扉を開く力になってくるのだと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
1月30日(金)、1月31日(土)、京都でワークショップを行います。*京都の北東、鬼門地域の小野郷や岩倉地域をフィールドワークします。
2月28日(土)、3月1日(日)に、東京でワークショップを行います。
お申し込み、詳細は、下記ホームページアドレスからご確認ください。