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第1641回 「失われゆく心の原風景」とは!?

 12月に椎葉村を訪れたので、昨夜の NHK椎葉村のドキュメンタリーは、少し楽しみにしていた。
 “秘境”の村に1年間の密着取材 宮崎県椎葉村!!などという触れ込みだったからだ。
 しかし、内容があまりにも薄っぺらくて、失望した。
 季節のめぐりを追いかけ、焼畑や狩猟に焦点をあてているのに、その一年の豊穣感謝の意味合いがある大切な神楽を取材していない。 
 狩猟のシーンなど興味深いところはあるけれど、あの程度のものなら、なにも大会社が巨額の予算を費やして、大勢のスタッフを使ってやらなくても、個人のドキュメンタリー映像作家の方が、相手との関係を深めて、もう少し深いところを伝えるだろう。
 私が12月に椎葉村を訪れた時、神楽の担い手は村に残っている人たちだけで行っていて、それでも十分に見応えがあったし、大勢の村人たちが集まって、ものすごく活気があった。そして、山の仕事は人手が足らないほど色々あるという話を聞いたし、神楽が盛り上がってくる午前3時くらいでも、子供達が大勢残っていた。

 今回の番組は、「のさり」という言葉を軸にしたかったようだが、この言葉は、石牟礼道子さんが、水俣病患者の言葉として紹介していたのだが、その過酷な試練に対する心構えと比べて、番組での取り上げ方は、自然の恵みが得られるかどうかといったレベルでしかない。その程度のことを「のさり」のルーツとして伝えるのは、どうなんだろう。
 有料のニュースや映像コンテンツならば、他に質の高いものがいくらでもあるのに、 時代遅れのNHKが残っているのは、けっきょく、政府が人事権も予算も握っている放送局を残し続けることを、政府が必要としているからだけにすぎないのではないか。
 NHKがこの番組を作るのに使ったお金を、志の高い10人のドキュメンタリー映像作家に分けた方が、社会的にも、よっぽど意義があるだろうと思う。
 現代は「ポストモダン」、すなわち「価値観は人それぞれであり、多様な表現があって良い」とされる時代だから、私がこうした番組批判を書くと、「番組の楽しみ方は自由だ」「私は十分に楽しめた」といった意見を持つ人々からすれば、私の批判は水を差すものであり、独善的だと反感を買うであろうことも承知している。
 それでも敢えて書くのは、番組の背後に透けて見える「オールドメディア特有の硬直した思考構造」を見過ごせないからだ。そして悲しいかな、その古い構造に感化された大勢の視聴者もまた、そこから脱却できずにいる。
 まず、昨日のドキュメンタリーにおいて、なぜ「夜神楽」が描かれなかったのか。
 その理由は、制作を担ったNHKエンタープライズが、柳田國男の『後狩詞記(のちのかりことばのき)』(1909年)やその解説本のみを企画の拠り所に置いたからだと推測される。
 実際、番組内でも柳田の名は頻繁に引用されていた。
 しかし残念ながら、柳田の著作には椎葉村の夜神楽に関する詳細な記述はない。
 1908年に椎葉を訪れた彼の関心は、あくまで「平地とは異なる山地固有の古い生活様式」にあり、中世の伝統を残す狩猟組織や原始的な焼畑農法に日本人の「古層」を見出そうとしていたからだ。
 さらに滞在はわずか数日間であり、夜神楽が行われる冬の時期(11月〜12月)でもなかった。彼は神楽を直接目にする機会がなかったのである。
 柳田の『後狩詞記』が椎葉村民俗学の聖地としたことで、後の研究者によって夜神楽の重要性が明らかにされ、現在では「焼畑・狩猟・神楽」は椎葉文化を形作る三位一体の要素として定着している。

 つまり、柳田の視点はあくまで「狩猟」という限定的な窓から椎葉を覗いたものに過ぎない。
 もちろん、彼の著作が後の民俗学に火を灯した「種」であることは否定しない。しかし、「種」をあたかも完成した「花」であるかのように扱うのは誤りだ。
 NHKが掲げる「失われゆく心の原風景」というテーマは、100年以上前の柳田の視点を借りてきた(あるいは着服した)ものに過ぎず、その思考はあまりに硬直している。
 権威ある柳田の著作を引用し、ありきたりなテーマで企画を立てれば、大組織内での承認は得やすいだろう。だが、こうした構造こそが権威をさらに強固にし、そこから外れた自由な視点を奪っていく。
「価値観は人それぞれ」という相対主義的な開き直りの裏側で、大きな共同体が人々の思考を古い枠組みに押し込めているのだ。その安住の地は、いつまで保障されるのだろうか。
 この「情報選択」の問題は、同日の都道府県対抗男子駅伝の放送にも顕著だった。
 NHKは、本調子ではなく区間順位も振るわなかった人気選手(黒田朝日選手)にはインタビューを行い、一方で区間賞を獲得した帰山侑大選手を無視した。
 制作側は「視聴者は『山の神』という権威あるスターの声を聞きたがっている」と判断したのだろうが、ネット上では「意味がわからない」と不満が噴出した。NHKの情報選択の在り方に違和感を抱く人々は、確実に出始めている。

 根本的な問題は、NHKが健全な競争に晒されていないことにある。
 競争がなければ、組織保全のために権威にすがり、安易な世論(あるいは作り手が想定した世論)に迎合する。古い頭は、常に「常識という枠組み」の中で物事を組み立てる。
 対して新しい思考とは、たとえば志の高い10人の映像作家に予算を分配し、それぞれに椎葉村を体験させる(国民がお金を支払う構造になっているNHKの番組制作スタッフが使うお金でもお釣りが出るだろう)。そこから触発された個々の「種」を、独自の視点で作品へと昇華させ、その集合体として椎葉の世界を提示する。
 いったん常識や権威の枠組みを外し、曇りのない目で世界を見つめ、発見しながら形にする。これこそが未来に開かれた思考であり、過去の権威をなぞるだけの企画は、過去に閉じた思考でしかない。

 柳田國男も、当時は椎葉を短期間訪れた一人の旅人に過ぎず、自らの直感をもとに思索を展開する今日の「映像作家の一人」のような存在だったはずだ。
 彼が後に権威となったからといって、その視点に固執する必要はない。
 権威の看板を借りて責任を回避するような古い構造は、日本社会に根深く残っている。しかし、そうした時代からは、もうそろそろ卒業すべきだろう。

 NHKの番組批判ばかりではなく、私自身の視点を記しておきたい。
 権威のフィルターを外し、私自身の生身の感覚で捉えた椎葉の「日本の心の原風景」は、NHKが描いたような「自然の恵みを『のさり』として受容する」といった静的な次元に留まるものではなかった。それはもっと柔軟で、ダイナミックな「開かれた精神」の体現だった。
 そもそも椎葉村は、山奥に閉ざされた秘境ではない。河川ルートを通じて外部世界と激しく交差してきた場所である。
 番組に登場した人々の姓に注目すれば、その歴史は一目瞭然だ。
 テレビを観た人で気付いた人もいると思うが、椎葉には「那須」の姓がとても多い。これは、源平合戦の英雄・那須与一の弟(大八郎)の後裔とされている。
  この「那須」は、平家の落人を追って椎葉にやって来たとされるが、平家の落人は、豊後の緒方氏を頼り、姓を「緒方」に変えたとされ、だから椎葉には「緒方」も多い。そして古くからの先住民である「椎葉」。
 椎葉は、外来のマレビトと先住民が混ざり合いながらも、今なお姓によってルーツが可視化されている稀有な共同体なのだ。
 戦国時代、椎葉は「十三人衆」と呼ばれる首領たちが各地域を統治する、自律分散型の社会であった。山の民、森の民、川の民。生業が異なれば、資源への依存度も守るべき理も異なる。だからこそ、違いを前提とした協議と調整による「共存の知恵」が不可欠だった。
 そこに「中央集権」の論理を持ち込み、特定勢力に権威を与えて管理しようとしたのが豊臣秀吉の天下統一である。その歪みが凄惨な「椎葉山騒動」を引き起こした。
 椎葉という地は、設計図ありきの「エンジニアリング的思考」による管理には馴染まない。むしろ、形の異なる石を組み上げて安定させる「石垣(ブリコラージュ)」のような、高次元の秩序によって保たれてきた世界なのだ。
 私が椎葉の向山日添(むかいやまひぞえ)で目撃した夜神楽も、その精神を雄弁に物語っていた。
 一般的な天孫降臨のストーリーを追うのではなく、ハイライトに据えられていたのは「タジカラヲ」の一人舞であった。これは白鳥神社太夫に一子相伝で伝わる神聖な舞だという。明治維新の社家制度廃止を乗り越え、「太夫」が古神道の本質を継承し続けている点に、この地の精神的自律性がうかがえる。

 なぜタジカラヲなのか。記紀において、この神は天岩戸をこじ開け、世界に光を取り戻した神である。伊勢神宮アマテラスと並び祀られているこの神の本質は、「扉を開くこと」にある。
 扉を開くとは、神聖な領域(聖)と日常(俗)の境界を打ち破ることだ。私たちは往々にして、カテゴリーという「扉」を閉め、その区切られた枠の中に安住しようとする。しかし、扉を閉じた世界では時間は硬直化し、歪みが生じる。
 タジカラヲが象徴する「開く精神」こそが、停滞した時間に風を通し、生命力や生産力を再起動させる。異質なもの、外部からのマレビトを迎え入れることで、日常をリセットし、新しい時間を始める。
 椎葉の人々は、この「開く」ことによる再生の儀礼を、千年以上も繰り返してきたのではないか。
 向山日添の夜神楽は、まさに心地よい「カオス」であった。
 観る者と演じる者の境界は溶け合い、あちらこちらから歌や掛け声が自然発生する。岩戸の前で八百万の神々が爆笑したという神話を体現するように、場には絶えず笑いが満ちていた。
 この区切りのないカオスこそが、時の起点であり、浄化(リセット)の瞬間なのだ。日常の軋轢やわだかまりも、神楽の舞に見惚れ、酒を酌み交わし、共に笑ううちに溶けて消えていく。大人も子供も、この「開かれた時間」に浸ることで、明日を生きる活力を受け取る。
 私が椎葉で感じた原風景。それは、NHKが強調した「自然とのつながり」以上に、この「歴史時間とのつながり」、そして「異質なものに開かれた精神」であった。
 「のさり」という言葉も、単に自然の恩恵を受け入れることだけを指すのではない。自らの生を、個人の枠に閉じ込めるのではなく、祖先から連綿と続く大きな歴史の流れの中に位置づける。その覚悟と受容こそが、真の「のさり」ではないだろうか。
 現代において失われつつあるのは、ステレオタイプな自然愛護の精神ではない。自らを「開く」ことで歴史という大きな時間軸に繋がり直す、そのダイナミズムなのだ。椎葉の夜神楽が放つ光は、過去の遺物ではなく、未来への閉塞感を打破する「タジカラヲ」の力そのものに見えた。
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