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第1636回 人間の分別を超えた世界のリアリティ

田端環状積石遺構(ストーンサークル):東京都町田市

 正月に、本作りや写真展を通して自分が表したいものとして、「人間の分別を超えた世界のリアリティ」であり、その理由は、「自分が生老病死の苦に直面した時、最後に残された救いの鍵は、人間の分別を超えた世界のリアリティを感じられるかどうかにかかっているだろうから」ということを書きました。
 別の言い方をすると、自分の意思で「生きている」のではなく、自分を超えた力によって「生かされている」というリアリティを実感できることが、自分ではどうにもできない生老病死の苦からの救いの回路のような気がするということです。
 言葉だけだと抽象的になるので、もう少し具体的な話をすると、私は、フィールドワーク・ワークショップで、石垣のブリコラージュのことを、くどいほど繰り返し伝えています。
 中世の城壁のように、歪な形の石が見事に積み重なって強固な石垣を築き上げている状態。
 それに対して、現代社会には、エンジニアリング的発想で計画的に石を切り揃えて積み重ねた壁が多くあります。
 前者の方は、長い歴史的時間を生き続けますが、後者は、消費社会の商品のように、もしくは肩書きだけを基準に人を集めたプロジェクトのように、表面的に整えているだけなので、どこか一部が損なわれたりすると、そこから生じるズレが全体に波及していき、あっという間に崩れていきます。
 後者のエンジニアリング発想にもとずく壁の中の一つひとつの石は、固有性があるわけではないので、他のもので代替えがききます。
 しかし、前者のブリコラージュで作られた石垣の中の一つひとつの石の形は、どれひとつ同じものはなく、その石が組み込まれた場所で、その石でなければいけないという見事な役割を果たしています。その存在の仕方は、その石の力によるものというより、その場所によって、その石の存在が生かされているとも言える。
 つまり、どんなに歪な形であろうとも、その場所だからこそ、存在意義を発揮できている。
 こうした存在状態は、自分の意思で生きているというより、自分を超えた力によって生かされているという状態です。
 人間の思惑が入り込まない世界は、そのようにできています。
 世界にとって、不必要なものは何ひとつない。死もまた、新しい命の糧です。
 大切な家族のなかに重病者がいて、そのために、自分の時間とエネルギーの多くを割くという状態は、苦かもしれませんが、ブリコラージュの発想に照らし合わせると、互いに生かされている関係でもあります。
 そういう状態にならないと、見えていなかったもの、感じることができなかったものがある。
 人のために何かを行うことは、一般的に、自分のエネルギーを消費することだと思われていますが、実際に、そうした行為を通して、自分が元気になっていることが多い。
 エネルギーというのは、おそらく、自分の中に蓄えられているのではなく、自分と世界とのあいだの循環や交感の際に生じるものであって、食べることや身体を動かすことも、自分の中に、外から得た物体を取り込んでエネルギー化しているのでなく、発電装置のように、自分と外界の接点で自家発電を行ってエネルギーを生じさせているのでしょう。
 食べ物でもお金でも同じだけれど、蓄えるだけでは、何も活性化しない。つまりエネルギーは生じない。
 すなわち、苦というものを一種の摩擦だと考えれば、摩擦が大きいほど自家発電のエネルギー量も大きくなる。
 実際に、苦労を重ねている人ほどエネルギッシュということはよくあります。逆に、親の遺産で、蓄えは十分すぎるほどあり、働かずに好きなことができるという状態でも、エネルギーを感じない人もいる。
 自分のエネルギーを使えば使うほど消耗すると考えている人が多いけれど、実際はそうではなく、使えば使うほど元気になるものなのです。
 それが、人間の分別を超えた、世界のリアリティ。
 昨年は、日本各地のストーンサークルをたくさん見てきました。

 この写真は、東京の町田市のストーンサークルです。
 この場所から丹沢山地や富士山も見渡すことができ、冬至の日没時には、丹沢山地蛭ヶ岳山頂部に太陽が沈む様子が見られます。
 どこのストーンサークルもそうですが、大きな円環構造があり、その円を形成する各部分に、小さな円環がいくつもあります。銀河を遠くから見ると、一つの大きな渦巻きですが、その部分を拡大すると、小さな渦巻きが無数にある。これと同じで、ストーンサークルにもフラクタルの構造があります。全体と部分が相似形であり、これが宇宙の姿なのです。

 さらに、冬至の太陽との関係など、天体の動きが意識されて作られている。
 古代史ファンの中には、こうしたストーンサークルを天体観測施設だと主張する人が多いのですが、「観測」という客観的視点は、現代人特有のものであり、私は、こうしたストーンサークルは、宇宙のリアリティと自分自身を一体化させる装置ではないかと思っています。
 古代人は、宇宙の構造を意識しながら、その構造の中で生かされている自分であるということを弁えていたのでしょう。

だから、ストーンサークルもまた、ブリコラージュで作られた石垣と同じように、同じ大きさ、同じ形の石は、一つもありません。
 全てが異なり、なかには、かなり歪な形のものもある。
 しかし、歪であることで、周りから浮いてしまうということはなく、それぞれが存在意義を発揮しています。
 むしろ、この世界にエンジニアリング的発想を持ち込み、意図的に形を整えた人工石を置くと、その方が不自然で、違和感が強くなるでしょう。
 古代人は、こうしたストーンサークの中や傍に、埋葬施設を作っていました。
 人間は死んだら、この宇宙構造のなかに還っていき、魂は、その中で巡っていくだけ。
 人間の自我分別は、そうした世界のリアリティから人間の認識を遠ざけてしまう曇りガラスのようなものです。

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