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第1633回 日本の古層に潜る旅〜南九州編(12)

熊本県八代。景行天皇天皇巡幸地。⼤⿏蔵山古墳群の西2.5kmの龍神社から望む有明海

 日本の古層を探索するうえで、情報知識ではなく、生々しいリアリティを感じとるためには、現地を訪れる必要があります。
 たとえば、神話上の舞台となっている土地の風景や地形や地理や地勢は、神話の背景に対する大きなインスピレーションを与える。
 また、一つの古墳のことを考えるうえでも、二次元の地図上で確認することと、現場で三次元的に体験することでは、大きな違いがある。
 情報を通して墳丘の大きさが50mだと知り、大したことがないと思っていても、実際にその場所を訪れてみると、平野部に聳える小山の上に築かれていて、そこから360度のパノラマの光景が見渡せるところだったりすると、その古墳に埋葬されている王の力を、再認識せざるを得ないのです。
 とりわけ、その古墳のてっぺんから神奈備山が見えるとすると、その山が古代において重要な意味があるはずで、それを確認すると、山と山の喧嘩という伝承が残っています。
 このたびの南九州の旅に関して一通りのことは書いたのだけれど、心の中にしこりのように残っているものがあります。
 それは景行天皇と、その息子のヤマトタケルのこと。日本書紀には、第12代景行天皇による熊襲征伐のことが、詳しく記述されています。

景行天皇天皇巡幸地、水島龍神社(熊本県八代市)。日本書紀では、景行天皇18年の条に、「景行天皇が芦北の小島に留まって食事をされたとき飲み水がなかったので小左という者が神に祈りを捧げたところ、たちまち清水が崖のほとりから湧き出したので、その水を汲んで天皇に差し上げた。このため、この島を水島というようになった。という記述がある。

 景行天皇は即位12年から、自ら西下し、 周防国山口県)を経て九州に入り、豊前、豊後(大分)、肥後(熊本)、日向(宮崎)など広範囲を転々とし、土蜘蛛(在地勢力)の討伐・平定を行った。
 しかし、景行天皇が都へ帰還した後、数年が経過すると、熊襲が再び反乱を起こしたと『日本書紀』に記されており、景行天皇27年(天皇帰還から8年後)、天皇は、16歳であった皇子の小碓尊(おうすのみこと、後の日本武尊)に熊襲征伐を命じた。
 その結果、小碓尊熊襲の首長である川上梟帥(かわかみたける)を討ち取り、敵の「たける」の名を得て、「ヤマトタケル」となったのです。
 この流れについて、一般的な神話解釈では、景行天皇熊襲征伐を行ったが再び反乱が起きたのでヤマトタケルが派遣されたと説明されますが、その程度の認識では真相から程遠いように思われます。
 まず、景行天皇熊襲征伐における具体的な記述よりも、ヤマトタケル熊襲征伐における抽象的な記述の方が広く知れ渡っている不思議さについて、考える必要があるでしょう。
 ヤマトタケルは、女装して敵の懐に忍び込んで首長を討ち、その首長が、彼の勇気を讃えて、自分の名の「タケル」を名乗ってもらうことを願うというストーリー。
 この物語は、武力を使って強引に制圧する政策ではなく、精神的に相手の共感を獲得して、相手を懐柔し、同化と結合を推進する政策を表しているように思われます。
 これは、平安時代初期に、桓武天皇坂上田村麻呂を将軍として蝦夷を武力で攻撃し、制圧したものの、その武力支配は長続きせず、桓武天皇の息子の嵯峨天皇の時、文官の小野岑守陸奥守として、武力による統治から蝦夷に対する懐柔政策(具体的には、蝦夷の神々に対する信仰を仏教と重ねる神仏習合政策など)を行ったことと共通しているのではないでしょうか。
 そして、深く考えなければいけないのは、このヤマトタケル熊襲征伐の物語が、いつの時代のことなのかということ。
 考古学的に私が気になっているのは、有明海に注ぐ菊池川流域の江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)で、これは、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌銘をもつ大刀が出土した古墳です。

江田船山古墳( 熊本県玉名郡和水町

 その銘文の内容は、古墳の被葬者のムリテは、「ワカタケル」の宮廷で、文官「典曹人(てんそうじん)」として仕えていたというもの。
 埼玉の稲荷山古墳の鉄剣にも、ワカタケル大王の時に、斯鬼(シキ)宮で仕えていたヲワケのことが記載されていますが、こちらは、「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)=宮廷の親衛隊長だった。
 ワカタケルを、5世紀後半の第21代雄略天皇とする説が学界では一般的なようですが、6世紀の29代欽明天皇説もあり、シキノミヤを営んだのは欽明天皇なので、私も、欽明天皇だと思います。
 もう一つ、私が欽明天皇だと思う理由は、江田船山古墳の周辺、菊池川流域は日置荘であり、日置氏の痕跡が多く残っていること。日置氏は、太陰太陽暦という国家の暦の普及と関わっており、太陰太陽暦が日本にもたらされたのは欽明天皇以降だからです。 

彦嶽宮 下宮(熊本県山鹿市)。彦嶽の麓に鎮座する。第12代景行天皇は九州に上陸し、高天山(震嶽)に行宮を営んだ。熊津彦は土蜘蛛の津頬と共に兵を進めて夜中に天皇を襲った。天皇が行宮で祈ると、彦嶽の頂上より高天山に霊感があって、高天山は大いに振動し、賊徒はたちまち敗走して天皇の大勝となった。天皇は神恩に感謝して、彦嶽三所に神宮を造立されたという由緒がある。
景行天皇が、行宮を営んだとされる高天山=震岳(ふるいだけ)

 日本人にとっての共通文字となった訓読み日本語が確立されたのも、欽明天皇の父の継体天皇の頃であり、その時から氏姓制度も始まった。雄略天皇の時代には、官僚制度として用いられる共通文字はなかったはずです。
 古代中国王朝においても、統一国家の王のつとめは、共通の文字と共通の暦の制定であり、広い地域を安定的に長期的に治めるためには、共通の文字と暦に基づいた官僚組織が欠かせませんでした。 
 日本もまた、それが実現された後が統一国家であり、それまでは群雄割拠という状況だったと思われまする¥。なので、3世紀後半から5世紀後半までヤマト王権が日本を統一したという、日本人のなかで半ば常識のように共有されてしまっている共通認識は、改める必要があると思うのです。
 史実としての初代天皇とされる第26代継体天皇以降、日本という国が一つにまとまっていったという認識に基づいて、日本の古代史を捉え直す必要があると、私は考えています。
 なので、ヤマトタケルの「タケル」の名を持つ「ワカタケル」の時代に、軍団の長ではなく、平安時代嵯峨天皇の治世の小野岑守のような文官が、菊池川流域の江田船山古墳の被葬者であったという事実が、非常に大きな意味をもってくる。
 江田船山古墳の場所は、弥生時代からの集落があった場所でもあり、弥生遺跡と古墳群が隣接している。
 その場所に、畿内で官僚体制を整えた欽明天皇に仕えた文官がやってきた。
 ヤマトタケル神話というのは、共通文字と官僚組織がすでに存在していた頃に築かれた江田船山古墳の時代の、九州における懐柔政策のシンボル化ではないかと思うのです。
 平安時代初期、蝦夷の武力制圧を行おうとした桓武天皇と、蝦夷の懐柔政策を行った嵯峨天皇は、親子関係ですが、景行天皇ヤマトタケルが、史実としての親子関係かどうかはわかりません。
 私が思うに、ヤマトタケルが神話的な象徴であるように、景行天皇も象徴的な存在ではないでしょうか。
 なぜなら、九州において景行天皇の九州巡幸の伝承が残る場所には、欽明天皇の時代よりも100年以上古い古墳が多いからです。

景行天皇天皇巡幸地、水島龍神社(熊本県八代市)から海を隔てて⼤⿏蔵山(おおそぞうやま)がある。標⾼40mの⼩⼭で、楠木山古墳、尾張宮古墳、東麓1号古墳、東北麓2号古墳、西北麓(せいほくろく)2号古墳と、小山の各所に多数の古墳が築かれている。

 具体的には、今回訪れた、有明海に面する大鼠蔵古墳群(熊本県八代市)や、菊池川流域の竜王山古墳(熊本県山鹿市)。
 これらに共通しているのは、いずれも小高い山の上に築かれており、縦穴式石室を持つ古墳であるということ。

 熊本県山鹿市竜王山古墳。4世紀末から5世紀初頭に築かれた縦穴式石室を持つ古墳。標高142mの日輪山の頂上に築かれ、360度、まわりを見渡す場所。古代、日輪山の周辺は、湖であったという伝承がある。
竜王山古墳からの風景。

 縦穴式石室は、古墳の一番高い場所に築かれており、死んだ王が天に昇り、神となって、その地を治めるというコスモロジーが反映されています。
 だから、石室は、一度閉じられたら簡単に開けることができない構造になっている。
 それに対して、西暦500年頃から横穴式石室が普及し、これは、古墳の地上部に石室があり、横側から石室への出入りが比較的簡単にできる構造になっています。
 なので、王の妻や子供が亡くなれば、その石棺を石室に運び、合葬された。
 この横穴式石室の被葬者は、死んだ後に天に昇って神になるのではなく、黄泉の国へと旅立つ。だから、石室のなかに、黄泉の旅のための食物などが須恵器に盛られた。王は、あくまでも地上で生きている間だけの、地域の中心人物なのです。
 この横穴式石室で埋葬された最初の天皇が、第26代継体天皇で、その石棺が、熊本の宇土という場所から産出する阿蘇のピンク石。
 なぜ、わざわざ九州から石棺を運び、畿内に宮を築いた王の墓としたのかという古代最大の謎の一つは、ヤマトタケルのタケルという名が、九州の川上梟帥(かわかみたける)から得たものだという神話が象徴するように、畿内勢力と九州勢力の同化政策の一環と考えられないでしょうか。
 縦穴式石室と横穴式石室だと、宗教観と死生観が異なっているます。
 王が死んだ後に天に昇って神となって、その神こそが地域の安定のために存在しているというコスモロジーを持つ人々を、他の地域からやってきた勢力が支配するためには、その地域の死生観や宗教観を徹底的に破壊しなければいけない。そうすると、当然ながら、その抵抗も激しいものになるでしょう。
 景行天皇の九州行幸の伝承地と、古い時代の古墳の場所が重なっているのは、そうした古い宗教観と死生観の時代を、象徴的に示すためではないでしょうか。
 だから神話上、景行天皇熊襲征伐は、不完全となっているのです。
 その制圧が不完全だったために、ヤマトタケルが九州の地に派遣されたわけですが、この神話は、武力による制圧ではなく、懐柔政策によって治めることが示されており、それを可能にするためには、地域の人々の宗教観と死生観も変えていかなければいけない。もはや、死んだ王は天に昇って神にはならないのだと。
 おそらく、そうした死生観と宗教観の浸透は、大陸に近い九州の方が早かったと思われます。横穴式石室の普及は、畿内より九州の方が早かった。
 だから、九州には、江田船山古墳の被葬者に示されているように、ワカタケル王に仕えた文官が派遣された。
 それに対して、埼玉の稲荷山古墳の鉄剣に示されているように、同じワカタケルに仕えた武力部門の親衛隊長が派遣された東国は、九州のように懐柔政策が簡単ではなかったのでしょう。
 ヤマトタケルの神話においても、熊襲征伐に比べて、東国遠征の方が、様々な苦難に多く見舞われたことが描かれています。
 真相はわかりませんが、実際に旅に出て、神話の舞台を訪れると、天孫降臨にしてもヤマトタケル神話にしても、小学生の頃から机上のお勉強の中で、形式的に覚えさせられたことを、そのまま信じるわけにはいかないという思いが強くなります。
 古代人もまた、その場所に立ち、同じ風景を見て、何を感じ、何を思っていたかを想像するところからしか、真相には近づけないという気がするのです。 
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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
 12月20日(土)、21日(日)には東京で、今年最後のワークショップ&フィールドワークを行います。詳しくはホームページをご覧ください。
https://www.kazetabi.jp/

⼤⿏蔵山古墳群の上空を飛ぶ鳥。



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