このたびの南九州の旅における最後のレポート。それは、古代と中世のあいだに架かる精神の橋について。
九州の椎葉村に厳島神社が鎮座している。
平氏残党の追討の命を受けて、この地へやってきた那須大八郎(屋島の合戦で扇を射落とした伝承のある那須与一の弟)が、武器を捨てて穏やかな暮らしをしている平氏の落人に同情し、平氏の娘である鶴富姫と恋仲になり、ここに住み着き、その那須大八郎によって、平家と関わりの深かった安芸の厳島社から椎葉へ勧請されたと伝わっている。
平安時代末期、安芸の厳島神社の神主が佐伯景弘だった時、当時の安芸守だった平清盛との結びつきを強めた。
安芸国内の豪族たちは、平氏に荘園を寄進することで、自己の権益確保を図ろうとし、平氏は、寄進を受けた荘園を厳島神社の所領とし、平氏を本家、厳島神社(佐伯景弘)を領家とする荘園支配体制を構築した。
この時点で、安芸の厳島神社の神職である佐伯景弘は、西国における平氏側の有力な豪族でもあった。
そして1185年、平氏は壇ノ浦の合戦で敗退したが、その最後の時まで、安芸の厳島神社の佐伯景弘は、平氏側として参戦していたとされる。しかし、戦後、源頼朝は、佐伯景弘を滅ぼすことなく、壇ノ浦の海底に消えたとされる宝剣の探索を行わせた。
戦後も、安芸の厳島神社の処遇が戦前とまったく変わっていないため、佐伯景弘は、壇ノ浦の戦いの際には、源氏側に寝返っていたという解釈もある。
いずれにしろ、那須大八郎が、平氏のために厳島神社を椎葉に勧請したという物語は、そのまま信じにくく、他に理由があるのだろうと思われる。
厳島神社が鎮座している場所は、日向灘に注ぐ耳川沿いで、この源流域が、江戸時代初期の椎葉山騒動の舞台の向山。ここは鉱物資源の豊かな場所。
さらに、厳島神社の鎮座地は、耳川に十根川が合流する場所の近くで、十根川の源流域の財木も銅山で知られる鉱物資源豊かな場所。
厳島神社の真南10kmの大河内も、西都原古墳群を通って日向灘へと注ぐ一ツ瀬川の源流域で、鍛冶屋が多く存在した鉱物資源豊かな場所。この大河内とのあいだも、耳川や一ツ瀬川の支流を経由して行き交うことができる。
つまり、椎葉の厳島神社の位置は、椎葉地方の鉱物資源豊かな場所を結ぶネットワークの要のようなところであり、耳川を通じて、日向灘から四国、畿内へとつながることができる。
安芸の厳島神社は、古代から海人勢力と関わりが深く、その水上ネットワークや移送力が必要と判断されたから、椎葉の地に、厳島神社が勧請されたのではないだろうか。
安芸の厳島神社の神職であり有力豪族だった佐伯景弘が、壇ノ浦の戦いで平氏側で戦ったか、それとも寝返って源氏側で戦ったかについての真相は不明だが、鎌倉幕府が、戦後、その水軍力を重視していたことは明らかで、その力は、椎葉においても活用された。
そして、椎葉における那須大八郎と鶴富姫の結びつきは、これが史実かどうかは定かではないが、神話上のニニギとコノハナサクヤヒメの結びつきと重なる。
新しい知識や技術に基づく新しい価値観と、その土地で大切に守られてきたものとの融合。
那須氏が椎葉で最初の拠点とした十根川集落の近くの財木鉱山の場所は、十根川の源流域でもあるが、五ヶ瀬川の源流域でもあり、五ヶ瀬川は、高千穂を通り、ニニギとコノハナサクヤヒメの出会いの伝承地である笠沙山がある延岡まで達している。
そして、これは偶然の一致だと思われるが、十根川集落から延岡の笠沙山までの距離と、十根川集落から、ニニギとコノハナサクヤヒメの墓があるとされる西都原古墳群までの距離は、45kmと同じである。
那須与一の墓がある大見口が、神戸や京都の那須与一の墓とともに冬至のライン上にあり、さらに那須氏の本拠である栃木の大田原で最もの重要な史跡である上侍塚古墳も、この冬至のライン上であることなど、屋島の合戦において英雄的活躍をした那須氏の痕跡には、意図的としか思えない神話上の彩がある。
これはいったい何故だろうか。
那須与一の伝承は、浄土教や阿弥陀如来と結びついているケースが多い。
たとえば、那須与一が出陣の途中、京都で病にかかり即成院の阿弥陀如来に祈願したところたちまち回復し、それ以来、阿弥陀如来を肌身はなさず持っていたと伝えられていること。
「屋島の戦い」で扇を射落とす際にも、一心に阿弥陀如来に祈ったところ、見事に扇の的を射る事が出来、その後、京都の即成院に戻って出家したという伝承。
さらに、京都の隣の亀岡に与一堂がある。
一ノ谷の戦いに向かう源義経軍に従軍していた那須与一が、山城と丹波の境あたりで急に原因不明の病になり身体が動けなくなった。
たまたま亀岡の法楽寺の阿弥陀如来の噂を聞き、お参りしたところ、たちまち平癒し、その御利益から阿弥陀如来を深く信仰した。この亀岡の阿弥陀如来像は、源信の作と伝えられる。
浄土教が広く日本中に普及していくのは、鎌倉時代の法然や親鸞の貢献が大きいが、10世紀後半から11世紀初頭にかけて活動した源信こそが、中世の浄土教信仰の普及に多大なる影響を与えた僧侶で、彼が著した『往生要集』は、浄土真宗において、「正しく依り拠るべき経典」=正依(しょうえ)の聖経とされる。
源信は、紫式部に源氏物語を書かせた藤原道長が帰依した僧侶で、源氏物語の最後を締めくくる主人公の浮舟の出家に関わった横川の僧都のモデルとされる。
浮舟は、古代の巫女のように自我意識が希薄な女性で、薫と匂宮という自己中心的な二人の男の求愛の板挟みで苦しみ、川に身を投げるが、横川の僧都に救われて出家する。
そして、浮舟が生存していることを知って尋ねてくる薫を、浮舟は、きっぱりと拒絶する。
浮舟は、原初的な巫女のように生贄として死ぬのではなく、生きながらにして世俗を超越して祈り人となる。この新しい巫女像が、源氏物語のフィナーレだった。
13世紀以降に整えられていった『平家物語』においても、源信の『往生要集』は、特に「無常観」と「浄土信仰」を通じて深く結びついている。
『往生要集』は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道の苦しみを詳細に説き、それらから逃れるための唯一の道として極楽浄土への往生を強く説いている。
この根底には、この世のすべては無常であり、苦しみに満ちているという無常観がある。
『平家物語』は、「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」という文章で始まるが、これはまさに、『往生要集』の思想をあらわした文面だ。
また、『平家物語』には、平清盛や一門の者たちが、敗北や死の瀬戸際に際して念仏を唱える場面や、極楽往生を願う心情が頻繁に描かれている。
これは、『往生要集』の教え、「現世の苦から逃れ、来世で救われよう」という死生観が、物語の背景として色濃く反映されていることを示している。
この平家物語のなかでも特に有名なのが、屋島の合戦において、那須与一が、小舟の上で女官が掲げた扇を射落とすシーンなのだが、これは、驕れる平氏の没落を暗示するとともに、貴族社会から武家社会への転換を、見事に象徴するシーンと言える。
那須与一が仕えた源義経を、鎌倉幕府を開いた源頼朝よりも好む心理的傾向は、判官贔屓という言葉で表されるが、これは一般的な日本人の心性である。
判官贔屓という言葉は、弱者に対して応援したり同情するという意味で使われることが多いが、もともとは、権力の頂点に立って横柄に振る舞う人間よりも、運命に殉じた者に共感する日本人の心性であり、これこそは、平家物語のなかに流れている、無常感に基づいた美意識と言えるだろう。
平家物語の名場面、17歳の平敦盛の首を涙を流しながら斬って出家を決意し、法然の門となったとされる熊谷直美。このエピソードにも、源信の往生要集の冒頭の章名、「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)が反映されている。
その意味は、現実の世の中は、穢れた世界であると知り、執着を捨て、潔く、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること。
この精神が、運命に殉ずる中世のヒーローを生み出し、そのヒーロー像が、今日の日本人の心にも宿っている。
那須与一もまた、そうしたヒーロー像の一人であるが、屋島の合戦で活躍した英雄として終わらせず、阿弥陀如来のご加護で、源平の争いで亡くなった多くの者たちの魂を鎮魂する出家者となったいう伝承が重ねられた。
そして九州の椎葉の地に、平家の残党の追討のためにやってきた那須与一の弟の大八郎が、平氏の落武者に同情し、平氏の娘と結ばれたという伝承。
敵も味方もなく富も権力も意味を持たないという理想郷が、その当時の椎葉の地に存在していたのか、それとも、現実がかけ離れていたからこそ、物語のなかで、そうした理想が必要だったのか。
実際の現実世界では、鉱山開発などにも深く関わっていたと思われる那須氏だが、椎葉村の自然環境は厳しく、土地も痩せており、人々は山の斜面を開墾し、焼畑などの工夫をこらしながら、なんとかして生き延びてきた。
こうした環境世界で、支配者が傲慢な政策で土地の人たちを服従させても、長く存続できる共同体を作ることなどできやしない。
そのため、敵も味方も関係なく、助け合って生きることの必要性を説くために物語が創造された可能性は高い。
現実は厳しくても、心の中に理想郷を築くことで、健やかに生きていくことができるという智慧が、こうした伝承に結実しているのだろう。
「厭離穢土 欣求浄土」。この言葉は、徳川家康が旗印に掲げ、戦乱の世を終わらせ平和な時代を築くという決意を表したことでも知られる。
源氏物語の最後を飾る浮舟の生き方にも、この精神が反映されていた。
そして、紫式部は、源信をモデルとした横川の僧都に助けられて出家した浮舟という人物像を、新しい時代の巫女像として創造した。
それはつまり、古代の巫女が、そうした精神の体現者だったという認識があったからであり、その古代の巫女の精神を象徴するものが、昨日書いたように、スサノオの狼藉に対するアマテラス大神の精神なのではないかと思う。
古代から中世、そして現代へと、日本人の心には、流れ続けているものがある。
それを一言で言うと、驕れるものは久しからず。
自分の権限に執着し、自己本位に振る舞う傲慢さは、醜く、しかも、我が物顔の世界は、儚く消えていく宿命にあるということ。
そうした宿命のなかで、人々の心に美しく永遠に残り続けるものは、驕りを捨てたところにしかないということ。
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