今日は小説家の日野啓三さんの命日。
今から23年前の2002年10月12日に、日野さんは他界されました。
日野さんの遺著にあたる「ユーラシアの風景」という単行本を、出版においては素人の私が、日野さんに対する思い入れだけで作り、なんとか日野さんが生きているあいだに完成させることができていた。
日野さんは、写真が好きで、自分でもキャノンの一眼レフのカメラに85mmレンズだけをつけて、世界中を旅しながら撮影し、ベトナム戦争の時も、そのカメラを携えていた。
私は、日野さんが亡くなるまでの6年間、ほぼ毎月のように夕ご飯を準備してご自宅を訪れ、夜遅くまで語り合っていた。
その時の対話が、風の旅人の下地になったのだけれど、ある日、日野さんの家のリビングに置いてあったアルバムを見たら、とても味わい深い写真が多かった。日野さんは、その当時、癌の転移で入退院を繰り返していて、病院から戻ってすぐに小説を書けるはずがなく、頭のリハビリが必要だと言っていたので、私は、アルバムの写真と、短い旅エッセイで本を作りましょうと提案した。
日野さんは、それなら、わりと軽い気持ちで書けるからいいね、ということで、月に一つずつくらい、私が、イランやトルコの写真を選び、それに対して原稿用紙で2、3枚のエッセイを書いていただいた。
軽い気持ちのエッセイだけれど、ある程度まとまった時、日野さんは、改めてそれらに目を通し、「俺は、すごいものを書いているな」と自分に感心していた。
日野さん曰く、病院で麻酔漬けになり、自宅に戻ってきても意識が現世に戻りきれない状態で書いているから、無意識の狭間を彷徨いながら、この世ならぬものを書いてしまっているのかもしれない、というようなことを言っていた。
実際に、このエッセイと写真をまとめた単行本「ユーラシアの風景」に対して、大岡信さんや池澤夏樹さんが書評を書いてくださったが、何度読んでも飽きることがない、珠玉の、時空を超えた旅エッセイになっている。
日野さんのお葬式が終わった後、その本を持って、写真家の野町和嘉さんのところに行った。
日野さんは、野町さんの写真が好きで、「砂丘が動くように」と、「どこでもないどこか」の2冊で、野町さんの写真を表紙に使っていた。
野町さんと何を話したのかよく覚えていないが、突然、野町さんが、メディア媒体(雑誌)を作れよと言ってきた。
私は、出版社で働いたこともないし、雑誌なんて作れるはずがないですよと返答したと思うが、「これ(ユーラシアの風景のこと)が作れるんだった作れるだろ」みたいなことを言われた。
つまり、「ユーラシアの風景」は、写真と言葉の組み合わせで作られた本なので、それを見て、野町さんは、写真を生かしたグラフィック雑誌を私に作れと言っているのだった。
ほとんど私の思い入れだけで作った日野さんの本と、同じような感覚で雑誌が作れるはずがないと思って、2週間ほど無視していたら、電話があり、さらに圧力をかけられ、とりあえず企画書みたいなものを作ったら、「これでいいんじゃないか」みたいな流れになった。
雑誌を作れと言われて、1ヶ月後くらいだったのではないか。
よく覚えていないが、その企画書をブラッシュアップして、私が頭に思い浮かんだ人たちに筆ペンで執筆依頼の手紙を書いて、お送りしたのが12月20日くらいだったから、日野さんが亡くなってから2ヶ月ほどのあいだに、雑誌を作ることになって企画書を書いて、掲載依頼の手紙を書いていたことになる。
なぜ、そんなに急かされた状態になっていたかというと、野町さんが、なぜか創刊号の発行日は4月1日だよと、かってに決めていたからだ。まあ学校も会社も、新たな始まりの季節で、タイミングが良いということなのか。
私は、野町さんの圧に従って、4月1日から逆算して、印刷のこととかを考えると、12月中に掲載依頼の手紙を送って1月中に原稿をもらわなければデザイン作業ができないと、一人で焦っていた。
10月12日に日野さんが亡くなってから、2ヶ月ほどで、執筆者や写真家を確定させなければいけない。
しかも、私が企画書に書いて、野町さんが、「これでいいんじゃないか」と軽く言ってくれた執筆者は、白川静さん、河合雅雄さん、養老孟司さん、川田順造さん、松井孝典さん、岩槻邦男さん、鈴木秀夫さん、村上和雄さん、日高敏隆さんなど、歴史、文明、人類学、宇宙科学、生命学、環境学、霊長類学、動物行動学、植物学などにおける、それぞれの分野の頂点にいる人たちばかりだった。
なぜ、そんな大それたメンバーになったかというと、出版業界の事情を知らない私は、日野さんを通して知ったその人たちのことしか頭になかったからだ。
そして、それら各分野の頂点のなかの特別な存在が、白川静さんで、今思えば、よくもまあそんな大それたことができたものだと思うが、とにもかくにも白川さんを真っ先に説得しなくてはいけないということだけはわかっていた。
なので、全員に手紙と企画書をお送りした1週間後くらい、クリスマスの日だったが、白川さんのご自宅に電話をした。
ご本人が電話に出るなど想像もしておらず、女中さんか誰かが出るだろうから、お手紙をお送りしたので目を通して欲しいということを白川さんに伝言してもらおうと思っていた。しかし、電話口は、ご本人だった。
びっくりしたものの、勇気を振り絞って名を名乗り、手紙をお送りしたことを伝えた。するとすぐに、「読んだよ」と。
そして間髪入れずに、力強く、「あんた、こんな大それたこと実現するんか?」
その声を聞いて私の身体と心は固まってしまったが、ここで中途半端な返事をすると、なにもかもおしまい、と直感したので、「実現できないものを、白川先生にお送りするはずがありません」と言い切った。
「そうか。実現するのなら、やったるわ」。
この短いやりとりで、白川さんの了解をいただき、勢いにのって河合さんに電話をしたら「企画書に白川さんの名前があるけれど、白川さんがやるのか」と真っ先に聞かれた。
「もちろん、白川先生にはお返事いただいています」と答えると、河合さんは、「そうか、だったら、やるわ」と。
あとは、この調子で次々と話がまとまり、年が明ける前に全ての人に受けていただけた。手紙を全員にお送りしてから10日ほどで、各分野の頂点の方々に対する原稿依頼を成し遂げることができた。このようにして「風の旅人」は船出した。今思えば奇跡だったけれど、日野さんが導いてくださったとしか思えない。
というのは、その後、月日が流れ、白川さんも他界されたが、立命館大学に「白川静記念 東洋文字文化研究所」というものが作られ、白川さんのご自宅の書斎の本棚が、そのままの状態で、移設された。
当然ながら、難しい専門書がずらりと並んでいるわけだが、そこの中に紛れ込んだかのように、私が作った日野さんの「ユーラシアの風景」が置かれているのだ。
私は知らなかったが、立命館大学で専任講師をしている若い友人が教えてくれた。
白川さんが、ご自身のお仕事の合間に、この「ユーラシアの風景」の写真やショートエッセイに目を通してくださっていたとも想像できるが、企画書と一緒に私がお送りした本が、そのまま本棚に置かれて放置されていただけかもしれない。
「白川静記念 東洋文字文化研究所」の創設作業に携わった人たちは、そのあたりの事情がわからないから、ご自宅の書斎の状態をそのまま再現しただけ。
私は、どちらでもよくて、こうした奇跡的な縁が、具体的な形でそこにあるというだけで、自分を超えた何かに見守られ、導かれているという気持ちになる。
そして、私は、「ユーラシアの風景」の写真を撮ったカメラを日野さんからいただいていたのだが、そのカメラを宝物のように大切にしていたものの、自分で使うことを考えもしなかった。
しかし、今年、「日本の古層」の6冊目となる「みちのく古代巡礼」を作り、これまでの針穴写真ではない方法で撮影にトライしたところ、テーマにそったものが撮影可能であると実感できた。
だから次もそうしようと思っていたのだが、突然、日野さんが愛用していたレンズを使うという構想が、降りてきた。
この1、2ヶ月、このレンズで試しているのだが、50年以上前のベトナム戦争の時も、日野さんは、このレンズを通して世界を見つめていたと想像しながらファインダーを覗き込むと、とても感慨深いものがある。
日野さんと出会っていなかったら、私の人生は、まったく違っていたものになっていたことは間違いない。
風の旅人を始めることもなかっただろうし、白川静さんとの出会いもなかった。
交友関係も、まったく違ったものになっていたはず。
風の旅人を作っている時もそうだったが、今、手がけているものにしても、「日野さんが見たら、どういう顔をするだろう?」ということを常にイメージしているので、その感覚があるかぎり、軸がブレることはないと言い切ることができる。
日野さんのところに通っていた時も、「もう会いにくるな!」と突き放されることを、何よりも恐れていた。
なぜならば、20代前半、大学を辞めたり、海外放浪をしてまで独立自尊の精神で生きていこうと決めながらも、そのための手段も方法も何もわからなくなってしまった時に、メルクマールとなったのが日野さんであり、日野さんに「もう会いにくるな!」と言われてしまう自分に成り下がることは、その指標すら失うことだったからだ。
誰でもそうかもしれないが、私は、価値観の指標や軸を失うと、自信も信念も失い、何もできなくなってしまう。
人生において、他者からの恩寵で最高のものは、自分が心から納得できる価値観の指標や軸を賜ることではないかと思う。
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*みちのく古代巡礼は、ホームページで予約を受け付けています。