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第1607回 火の鳥と、生き直す力。

 昨日、中野ゼロで、小池博史さん演出の「火の鳥」の舞台にどっぷりと没入してきた。
 今回の作品は、小池博史さんにとって100作目。
 メキシコの「走り続ける民」ことタラフマラ族の名と、文化の先端に立ちたいという願いをこめた「パパ」という言葉を合わせた「パパタラフマラ」という名で小池さんが活動を始めたのが1987年。あれから40年に渡って、文字通り、ガムシャラに走り続けている姿は、通俗的な価値の枠組みの中で、いかにして人よりも注目されるかの競争をしている自称アーティストが多い現代社会で、超然たる存在になっている。
 とりわけ、このたびの「火の鳥」の制作は、現代の世知辛い判断基準をもとに生きている人からすれば、一種の狂気に近い。
 小池さんの新作「火の鳥」は、「山の神篇」と、「海の神篇」の二つで構成されるが、どちらか一つだけ体験しても十分すぎるものだ。
 それぞれが複雑で重層で壮大でいながら緻密な内容であり、一つだけでも、演出する側も、演じる側も大変なことではないかと想像できるが、同時に、二つやり遂げるなんて、常軌を逸している。 
 しかも、「山の神篇」は”現実を揺るがす”動的な時空、「海の神篇」は、”受難と赦しと再生へと導く”静的な時空、この異なる時空に没入していく大作が、それぞれ2時間もあり、これを1日で演じた15名のパフォーマーや、6名の音楽家たちに、心からお疲れ様と、感謝を伝えたい。
 普通の精神ならば、一つ終わった時点で、放心、忘我、達成感に浸ってしまい、次への切り替えが難しいのではないか。
 さらに小池さんが尋常でないのは、この「火の鳥」の二つの舞台は、一つひとつで十分に完成しているけれど、二つを体験してこそ、より味わいが深まると小池さん当人がわかっていて、しかし1日で二つ公演しても、一つしか体験しない、できない人もいることが事前に想像できている。にもかかわらず、それをやってしまっている。
 こうしたプロジェクトを行ううえで、計算高い人ならば、まずは「山の神篇」を公開して、しばらく経ってから、続編で「海の神篇」を公開するのではないか。
 1日に2度行うにしても、午後と夜、同じものを演じるのが普通であり、パフォーマーも、その方が楽だろう。
 いろいろな事情があってのことであろうが、小池さんは、「山の神篇」を体験する余熱と、「海の神篇」を体験する余熱を、重ね合わせて体験してもらいたいという、合理性を超えた、それこそ身体的な体験を重視する小池さんだからこその願いがあって、こうした公演方法をとったのではないかと私は想像してしまう。
 さらに、これまでもそうだったように、小池さんの胸中では、続編などと間延びしたことをやらずに、これはこれでケリをつけて、次に向かって動き出したいという衝動の方が強いのかもしれない。
 その「これはこれでケリをつけるもの」が、途方もなく巨大なものなのだけれど、小池さんは、そこに止まらない。
 小池作品に触れる体験というのは、この一つひとつの舞台体験とともに、絶え間なく走り続ける小池さんの活動全てに触れる体験であり、私は、そこに真の意味での芸術体験を感じている。
 世相を写し取っただけのものや、世相を理屈っぽく概念化したようなものがヨイショされて、それらのアウトプットの前で、少し首を傾げて、着眼点がなるほどねとか、センスがあるとかないとかワインの蘊蓄のようにテクニカルな解説をしたりすることが、心を豊かにする体験などと虚しすぎる事態が今日のアートシーンだが、小池さんは、こうしたチマチマとした今日の表現世界に風穴を開けようとして、ドンキホーテのような狂人としか思えない取り組みを、心底本気で、続けている。
 この本気が、舞台作りに参加する人のエンジンにもなっている。
 この本気は、表層に目が奪われて見失われがちな物事の根幹、真理を、浮かび上がらせ、観るものに体験として強烈に感じさせたいという願い。
 そして、その根幹、真理は、時代が変わっても、普遍的であるという信念。
 近年の小池作品は、古代インドの壮大な叙事詩マハーバーラタ」や、古代ギリシャホメロス神話の「オデュッセイア」などを題材として、その普遍性への思いが、数千年を飛び超えたものになってきているが、今回の「火の鳥」において、日本が、とくに強く意識させられるようになった。
 だから、私は、これまでの小池作品で、もっともメッセージ性が強いものだと感じられた。
 小池さんは、現状に対して思うことが底知れぬほどあっても、その思いを、弓を引く力に変えて、飛び放たれる矢は、その思いを昇華させたものであったが、今回は、言葉になりきれないメッセージが、腹の底に響いてくる。
 どんな時代も変わらない人間の欲望、陰謀、腐敗、争い、堕落、醜態と、津波や火山の噴火など、現世を一瞬にして異界へと変えてしまう天変地異。
 現世と異界が紙一重である日本の正真正銘のリアリティ。連綿と伝えられてきた日本文化の本質も、まさにこのリアリティの上にあるが、小池さんの「火の鳥」は、そのリアリティを実感させるだけでなく、「足元を見ろ!」というメッセージの弾丸となって心臓を貫く。
 「海の神篇」の最後の洪水と、日本沈没は、そのリアリティとメッセージが一体化したものだ。
 日本文化の本質を、敢えて短い言葉で言うならば、「生き直し」だ。それを、禊とか祓いとか、再生とか復興とか、いろいろな言葉に置き換えることは可能だが、それらの言葉に置き換えると、生き直しの本気度が薄められ、自分のことが、どこか他人のことになっていく。
 「この社会」とか、「この日本」とか、世界とか地球という大きな言葉を使えば使うほど、自分個人の問題としての「生き直し」の切実感が、良識人を装ったポーズにすぎなくなる。
 政治家だけでなく、有識者も似非文化人も、自分の保身のために、人々に向かって、「行き直せ」とは言わず、社会にとっての意義とか、世界にとっての重要性、といった虚飾の言葉で煙に巻く。
 真の芸術体験というのは、そうした欺瞞に対して突き付ける刃であり、個人の心の深いところに対して働きかけ、「生き直せ」「生き直したい」「生き直さなければいけない」「生き直すぞ」と、奮い立たせるような力を与える。
 その「生き直し」は、安易な作り込みのヒューマンドラマで、美しく純粋に生きる人間の姿を観る時のような、現実の塵にまみれているうちに掻き消えてしまう底の浅い情緒的な生き直し願望とは異なる。
 私たちが、「自分の人生の現場」だと思い込んでいる現世世界が、実は、縦割り官僚組織のように非常に限定的にすぎないものであることが、腹の底からわかった時、そういう閉ざされた世界に意識も身体も縛られているという状態に絶望を感じ、本気で、その外に出ようとするだろう。
 生き直しというのは、そうしたパラダイムシフトが、自分の中に起こること。
 真の意味での芸術が、見失われがちな物事の根幹、真理を浮かび上がらせることだと言う意味は、そういうパラダイムシフトを起こす力があるという意味でもある。
 だから、その根幹と真理を深く理解している芸術家ならば、過去から未来に、何を、連綿とつないでいくべきかも理解している。
 今回の小池さん演出の舞台、「火の鳥」。「火の鳥」といえば、誰でも手塚治虫さんの「火の鳥」を連想する。
 しかし、手塚治虫さんの「火の鳥」には、「山の神篇」、「海の神篇」は、存在しない。
 小池さんの「火の鳥:山の神篇、海の神篇」は、手塚さんの「火の鳥」に対するリスペクトを十分すぎるほど感じる内容だが、小池さんと、パフォーマーたちの手による、まったくのオリジナル作品である。
 これを観たら、熱心な手塚治虫ファンや、手塚治虫さん自身が、原作に忠実でないと怒るだろうか。
 小池さんは、当然ながら、手塚治虫さんに対する信頼とリスペクトがあるからこそ、あの人が、そんなこと気にするはずがない、と思っているだろう。
 連綿と伝えるべきものは、ものごとの表層的な形ではなく、本質であり根幹。
 今の日本社会は、薄っぺらい表層的アートの氾濫とともに、伝統的文化の継承などと口にしながら、実は既得権にあぐらをかいているだけの似非文化人も多いのだが、もしも世阿弥千利休が生きていれば、それらを見てどう思うかを基準に、それらの活動を評価した方がいい。
 そもそも、観阿弥世阿弥にしても、それまで伝統的という名のもと伝えられてきた「能」という形を後世に継承したわけではないし、まったくの新しい形を、突然、世に送り出したわけでもない。
 飛鳥時代に猿楽というモノマネ演劇のようなものが大陸から伝わって、最初は宮中、そして後に神社や寺などの保護で続けられていた。保護者が変わることで、その中身も、人々を楽しませる娯楽的なものから、神様を大切にすることが説かれたり、仏道を重ね合わせたものへと変容していた。
 そうした演劇空間に、観阿弥世阿弥は、田楽という農作の豊穣祈願の舞を融合させた。舞という身体表現が加わることで、演劇空間は、超現実的な様相を帯びるようになり、そこから、現世と彼岸に架かる橋のような表現へと昇華されていった。
 このあたりは、小池さんの舞台演劇と共通するところである。
 時代環境が変わることで形は変わっていく。しかし、大切な本質と根幹を見極めて、それは変えない。芭蕉俳諧の理念である不易流行とは、そういう意味であるが、これはまさに日本文化の真髄であり、芭蕉よりも前の時代に生きた千利休観阿弥世阿弥西行紀貫之など、過去と現在と未来に橋を架けてきた表現者は、不易流行という言葉を使わずとも、そんなこと当たり前のことだと踏まえて、その時々、何をどう表現するかに心を砕いていた。
 そして、そもそもなぜ、それらの人々が表現を重ねてきたのかというと、人間は、はるか昔から変わらず、目先のことに囚われて目が曇ってしまい、本質や根幹がわからなくなるという性質があり、それをなんとかしなくてはいけないという本気度を、人並み以上に備えた人が、必ず、時代ごとに存在していたからだ。
 この本気度を備えたドンキホーテは、過去のどの時代よりも情報が錯綜とし、価値観は多様であっていいのだからと本質や根幹から目を逸らす理由も氾濫している今日のなかで、非常に珍しくなっているのだが、小池博史という人は、紛れもなく、その本気の塊を備えた一人だろう。
 小池さんは、2012年、長年続けてきた「パパタラフマラ」という名を冠したプロジェクトに終止符を打ち、新たに「小池博史ブリッジプロジェクト」と称する活動を始め、さらに、「ブリッジプロジェクト」に、「ODYSSEY」という名を加えた。 
 この名が秘めた意味は、簡単に言えば、橋を架けるための苦難を覚悟の航海の旅ということになるが、この「橋」も「航海」も、壮大極まりないものだ。
 「橋」は、小池さんの舞台上の、世界の伝統舞踊や音楽、演劇、舞踊、美術、映像などジャンルと境界を超えた表現を自在に融合する表現の架け橋という意味が軸にあり、当然ながら、演じる側と観る側とのあいだの橋ということも含まれる。しかし、それらの今日に限定されたものだけでなく、過去と現在と未来をつなぐ橋でもあり、歴史上の、世阿弥観阿弥や、千利休芭蕉、そして手塚治虫などの、その時々の今、何を表すかを究極まで考え抜いていた芸術表現者とのあいだに橋を架けることにもつながっている。
 そして、航海というのは、可能性に対する希望が、根底にある。
 これを持たずに航海に出るものはいない。大航海時代に限らず、遠洋まで出ていく漁師だって同じだろう。
 この可能性への希望は、リスクと困難を覚悟のうえのものだから、祈りでもある。
 「橋を架けること」と、「可能性に対する希望と祈り」。実は、これこそが、本来の芸術表現のエンジンであり、不易流行の本質でもある。
 小池さんは、どこまで自覚しているかわからないが、まさにこれを実践している。
 小池さんが、「パパタラフマラ」という名で舞台演出を続けていた時、「文章や絵画や写真表現は、形になって残るけれど、舞台表現は、それがないのが悲しい」という内容のことを私に言った時、私は、本気で、「小池さんは、現代の風姿花伝を書くべきだ」と答えた。
 世阿弥能舞台だって、その舞台は、その場かぎりのものかもしれないけれど、世阿弥の精神は、風姿花伝によって繋がっていく。
 風姿花伝を読めば、世阿弥の舞台がどういうものであったか想像でき、その解釈に基づいて、実践活動を行える人も出てくる。
 もちろん、解釈を間違える人も多いだろうし、その人の実践の深さによって世阿弥の言葉の文脈の読み取り方も異なってくる。しかし、それは、それでいい。
 なぜなら、いくら写真や絵画など形あるものが残されていても、たとえばセザンヌの絵にしても、色彩や形だけ真似をしても、セザンヌの絵にならないのだ。
 どんなにAI技術が発達したとしても、表層をなぞることと、内側から滲み出るものの違いは明確に残り続ける。
 セザンヌはインタビューを受けた時、「あなたは神を信じますか?」と問われた。
 すると、顔色を変えて「神を信じないのに、なぜ絵が描けると、あなたは思うのですか?」と問い返した。
 神に対する本気度がセザンヌほどなければ、セザンヌの絵を見て真似をしても、セザンヌの絵にはならない。
 この違いがわからない人が大半かもしれないが、わかる人はわかる。つまり、けっきょく、絵など形が残るものも、世阿弥風姿花伝にしても、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。
 そのことに関して、人類は、過去から現在まで変わらない。同一社会で、本質や根幹がわかる人が大半だった時代など存在しない。
 だから、世阿弥にしても、同時代を生きる多くの人の共感や納得を期待して「風姿花伝」を書き残したのではなく、時代を超えて、わかるであろう人に届くことを念じて、書き残しているはず。 
 同時代の横広がりに世阿弥セザンヌの精神が普及するのではなく、歴史時間の中で、数百年、なかには一千年を超えて、蜘蛛の系のように、その精神はつながっていく。人間に対する信頼というのは、この孤高の精神の蜘蛛の糸が、数千年を超えて繋がっているというところにある。同時代のなかでドンキホーテのような孤独に陥っていても、この蜘蛛の糸の存在を知ることは、自分が人類の歴史から孤立していないことの認識へとつながるのだ。
 小池さんが演出した古代インドの「マハーバーラタ」や、古代ギリシャの「オデュッセイア」も、そして、このたびの「火の鳥」も、同じ土俵の上にある。
 「わかる」とはそういうものだと腹をくくらなければ、この世知辛い時代に、孤高のドン・キホーテとなって、タラフマラ族のように、ひたすら走り続けることなどできやしない。
 小池さんは、セザンヌが信じる神と同じ神を信じているわけではないだろうが、自分が行っていることが、一種の神事であるとの気構えがあるからこそ、いっさいの妥協や打算を許さず、厳粛な思いで取り組んでいるのだろう。

 今回の舞台について、言っておきたいことは、まだ無数にある。
 パパタラフマラの時代、小池さんの舞台は、台詞が極力控えられており、身体言語というのか、意味不明の身体から滲み出てくる音言語が主だったが、現在、さまざまな国からパフォーマーが参加して、今回の「火の鳥」では8言語?ほどが交差し、その意味不明の言語と、日本語の対話の展開が、意味を意味として完結させて閉ざさない余韻と含みと広がりにつながり、その広がりがあることで、言葉と身体が切り離されていないリアリティになっていた。
 また、日本人パフォーマーと、海外のパフォーマーは、顔の大きさ、手足の長さ、骨格の違いが明らかで、彼らが同じ動きをしても、揃いすぎて意識が閉じてしまうことにならない。その微妙に面白いズレが、次の展開への意識のつなぎの余地になっている。
 また、日本の古代が舞台であるが、現在の日本人だけでこれを演出しても、何か違うという感覚があると思う。
 やはり、日本という島国は、東西南北からさまざまな人たちが集まってきた混交の舞台であったはずで、顔も姿形も言語の異なった人たちが、向き合って、ああだこうだとやっていたのではないかと想像した方は、古代日本のリアリティに近づけるような気がする。
 現代の日本社会は、あまりにも標準化と均質化と規格化が進みすぎて、その結果、同質の日本人像を共有しなければいけないような圧力も強くなってきているが、それでも各地を旅すると、言葉も顔も表情も異なる日本人がいることがわかる。
 地元の人が方言で対話していても、ほとんど意味がわからないという楽しい体験もできる。
 異なっているものを見たり聞いたり体験することは、楽しい。
 そうしたものを、極端に嫌ったり、不安視したり、避けるような社会は、とても危うく、かなり歪であるのだけれど、その歪を歪と感じさせないよう、純粋とか正当が権威化して幅をきかせそうで、想像しただけで恐ろしいし、居心地が悪いし、気持ち悪くて、楽しさがない。
 自分には理解できないもの、わからないものに対して、心を閉ざすようになり、それが集団化すると、その社会は末期的で、たちまち高圧的で排他的で暴力的なものになることは、歴史が証明している。
 よくわからないけれど、なんだかとても心惹かれるという健全な精神を、社会の中に少しでも残し続けるために、小池さんは、個人の意思を超えて、ドンキホーテであることを運命づけられているように思う。

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*10月14日(火)まで。詳細、チケットの購入は、コメント欄に記載のホームページから。
https://kikh.com/works/hinotori/?fbclid=IwY2xjawNZeplleHRuA2FlbQIxMABicmlkETFiNVZxVTVXT1dtTjBnSDFyAR6iutgH7AvQw5yJQDCSRjLILK50CMda8_pzlwIcU6-N6XzIiP5oXD-lMU8xZQ_aem_tLtU1BBh0V0PYeP9OXUJ1A

 2025年10月11日(土)〜 14日(火)
 東京公演『HINOTORI 火の鳥・山の神篇/海の神篇』
 なかのZERO 大ホール
 〒164-0001 東京都中野区中野2-9-7

10月11日(土) 18:00 山の神篇
10月12日(日) 13:00 山の神篇 18:00 海の神篇
10月13日(月祝)13:00 山の神篇 18:00 海の神篇
10月14日(火) 14:00 海の神篇

▼スタッフ・出演者
作・演出・構成・振付 小池博史
出演 
LEE SWEE KEONG(マレーシア/舞踏家、俳優)
SYLWIA HEFCZYŃSKA-LEWANDOWSKA(ポーランド舞踊家
MAREK GLUZIŃSKI(ポーランドパフォーマー、俳優)
DANANG PAMUNGKAS(インドネシア/ジャワ舞踊家
JOÃO GUISANDE(ブラジル/俳優)
今井尋也(能役者、小鼓演奏家
池野拓哉(舞踊家、俳優)
奥澤秀人(サーカスパフォーマー
櫻井麻樹(俳優)
bable(俳優、舞踊家
西川壱弥(日本舞踊家
津山舞花(舞踊家、俳優)
森憩斗(俳優、舞踊家
岡部莉奈(一輪車アーティスト)
大城海輝(パフォーマー)
音楽・演奏・作曲 GREGORY SLIVAR(ブラジル / バイオリン、ビリンバウ、パーカッション)
田豊(横笛、サックス)
※SANTOSH LOGANDRAN(マレーシア / ボイス、パーカッション)
※WACLAW ZIMPEL(ポーランド / アルトクラリネット
演奏 ※中村恵介(トランぺット)、※もこてぃ(法螺貝、ディジュリドゥ
※東京公演限定演奏者
作曲 下町兄弟
美術 山上渡
衣装 浜井弘治(株式会社うるとらはまいデザイン事務所)
WA
ATINA RIZQIANA(インドネシア
小道具・装置 森聖一郎
照明 富山貴之
音響 深澤秀一
映像制作・プロジェクション 岸本智也
映像制作 IVAN SOARES(ブラジル)
ADRIAN JACKOWSKI(ポーランド
JAY CHIAH(マレーシア)
白尾一博 
3DCG制作 関戸真人
イラスト・アニメーション 梅村昇史
メイク NOA INOUE, AMANDA MANTOVANI(ブラジル)
仮面 I WAYAN TANGGUH, I MADE SUTIARKA (インドネシア)、ヤノベケンジ
舞台監督 河内崇、浜村修司
演出助手 縫原弘子、綾田將一、中谷萌
制作 穂坂裕美、黒田麻理恵、伊藤のりこ、川之上恭弘、高田晴菜
宣伝美術 梅村昇史

主催 株式会社サイ、特定非営利活動法人ブリッジフォージアーツアンドエデュケーション
共催 なかのZERO指定管理者 ※東京公演、ロームシアター京都(公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団)※京都公演、株式会社黒山社中、EARTH+GALLERY




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