現在、東京と京都の二拠点生活をしているけれど、関西の拠点を、生まれ故郷の明石にしようかと漠然たる構想をもっていて、なので京都に来る時には、その都度、一度は明石の空気を確認するために訪れている。
現在の拠点にしている東京と京都は、わりと海から離れており、18歳まで海のすぐそばで暮らしていて、海を当たり前の存在として感じていたから、海に対して底深い郷愁のようなものがある。
京都では桂川の岸に住んで、川や山を感じながら暮らしていて、それはそれで心地よいのだけれど、海のそばにくると、まったく違う空気を感じて、心の深いところが疼くのだ。
明石を訪れる時には必ず食べる明石焼きの味も、子供の頃から大好きなのだけれど、やはり、東京で食べるのと、明石の海のすぐそばで食べるのとでは微妙に異なるものがある。
今回、明石を訪れて、とても驚いたのは、自分が小学校の時に住んでいた借家が、建て替えられており、ちょっと洒落た空間になっていたことだった。
たびたび明石は訪れていても、明石駅の周辺ばかりで、自分が生まれ育った藤江の場所は、数年前に訪れて以来のことで、この1、2年のあいだに建て替えられたらしい。
数年前まで、50年近くも昔のまま残っていて、外観はそれほど傷んだ風でなかったので、なんだか時間が停止したようで、しみじみと感じ入っていたのだが、今回は、蜃気楼を見ているような感覚になった。なぜなら、家の周りの環境や雰囲気は、まったくといっていいほど昔と変わらず、家だけが別の空間から持ってこられたように、存在が浮いていた。
子供の頃、私がよじのぼって海を見ていた家の脇のコンクリートで固めた斜面は、そのままだった。
この光景は、なんだか啓示のように感じられ、今回作った「みちのく古代巡礼」の深層テーマである不易流行のような感じ。
家が変わってしまったことが特に残念だという気にもならなかったのは、家から50mほどのところの海沿いの景色をはじめ、周りの空気が変わっていなかったため、自分の記憶と、その場所がつながらない違和感を感じなかったからだろう。
昔の友人と出会った時、外観はすっかり変わっていても内側から滲み出るものが変わっていないと、ほっとするけれど、外観に面影があるのに滲み出るものがまったく別人になっていれば、つながりを見出せなくなるのと同じだ。
時は流れ、目に見える形は変わっていく。しかし、形を変えても、変わらなく伝わっていくものがある。大事なものは、その形の背後に秘められていて、そこにアクセスできる扉が残されているかぎりは、流れゆく時間から自分が切り離されていないという感じがして、それが拠り所になるような気がする。
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*みちのく古代巡礼は、ホームページで予約を受け付けています。在庫を置くスペースの問題もあるので、注文数に応じてオンデマンドで印刷していくという方法をとろうと思っています。
*10月25日(土)、26日(日)、東京でワークショップセミナーを行います。詳細・お申し込みは、ホームページにて。