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第1599回 「日本の歴史」ではなく、「日本の古層」としている理由

ワークショップの初日、今回で33回目の開催だが、一番暑かった。
 天気予報で気温39度くらいになりそうだと、あらかじめわかっていたので、衝撃は受けなかったけれど、影のない場所の太陽光線は痛いほど。
 体調崩して当日キャンセルの人もいたけれど、この時期に参加してくる人は、自分の体力に対して自信のある人に限られているから、昼間の炎暑のなかフィールドワークを行った後、事務所に着いてからも、夜8時か9時頃まで、全員、残っていた。
 今回の参加者から、私が、「日本の歴史」とか、「日本の古代」という切り口ではなく、「日本の古層」という切り口で取り組んでいることが、興味深いし、珍しいという意見を聞いた。
 私の意識のなかでは、「歴史」とか「古代」で切り取ってしまうと、それは、世の中に色々と興味深いジャンルがあるなかの、その人の好みの一つにすぎなくなるという感覚がある。
 つまり、歴史好きのための歴史、趣味教養にすぎないということ。「あなたは歴史が好きなのね、私は、ロックンロールが好きだわ」みたいな。
 たとえば、卑弥呼邪馬台国は、どこにあったかに興味がある人は、歴史好きであり、古代探求好きということになる。
 私は、卑弥呼邪馬台国がどこにあったかについては、たいして興味がない。
 なぜなら、当時、卑弥呼邪馬台国が日本を統一していたとは思わないし、邪馬台国だけが大陸と交流していたのも思わないからだ。
 邪馬台国は、その当時、日本に数多く存在していた「クニ」の一つにすぎない。
 大陸との交流は、文章記録が残っていなかったとしても、「物」として、九州や奈良以外、丹後、出雲、播磨、関東や東北など、様々な地域に痕跡が残っている。
 私が、「卑弥呼」の文章記録で気になっているのは、男性がリーダーになるとクニの中が乱れて、女性がリーダーになると治ったというくだりだ。
 このことが、日本の「古層」を考えるうえで、鍵になってくると考えている。
 なぜ、男性だと乱れて、女性だと治るのか?
 男は権力志向が強くて、だから戦いが起きやすい。というところまでは、まあ普通に想像できるが、理由は、それだけなのか?
 その後の歴史の中でも、飛鳥時代奈良時代など、女性天皇が長く続いた時代があった。その背景に何があったのか?
 日本の歴史には、巫女の復権と形容してもいいような状況が、たびたび起きる。
 その背景に、日本の特殊な風土、大自然の猛威によって壊滅的な打撃を被るということが、定期的に、起きている。南海トラフ地震や、富士山の大噴火など。
 すなわち、大自然の前に、人間の無力を思い知らされる事態。
 こうした状況と、「犠牲」となる巫女の復権が、重なっているようにも思える。
 犠牲というのは、何も、人身御供ということだけでなく、共同体の様々な問題を、自分を打ち捨てる無私の心で祈り人の立場となって引き受ける存在であるということ。
 たとえば、日本の隅々まで行き渡っている聖徳太子信仰にしても、聖徳太子は、救世観音と重ね合わせられているわけだが、観音菩薩というのは、女性的な霊性を備えている。
 人智では対応できない事態のなかで、人々の心を鎮めるのは、男性的な逞しいリーダシップではなくて、慈愛なのだ。
 そうした具体的な過去の事例は、現在を生きる私たちにも深くつながってくる。
 私たちが「歴史」とか「古代」と口にする時、多くの場合、それは、私たちが生きる「現在」とは切り離された、遠い昔の過去ということになる。
 良識ぶった人は、「歴史から学ぶことが多い」と言い、一部の政治家は、歴史記録の中から自分の政治的主張に都合の良いところだけを抜き出して、パッチワークのようにつなげて、「日本の伝統の良さを取り戻そう」などと声高に、感情をこめてアピールしている。
 いずれも、胡散臭いものが漂っている。
 その胡散臭さの原因は、どこにあるのか?
 それは、たとえば、卑弥呼邪馬台国が九州にあったのか奈良にあったかを論争する人の心に、邪馬台国があった場所の方が、先進的(優位)であったことの証であると胸を張りたい欲求が潜んでいるからだ。
 つまりそれは、自分の空虚の埋め合わせのための、歴史の真相探しにすぎない。
 「日本の伝統の良さを取り戻す」とか、「日本の歴史に誇りを持つべきだ」というのも同じで、そうした主張は、実は、自分の空虚を何かで埋め合わせたい欲求とつながっている。
 そのように単純化された歴史メッセージが、一挙に、大勢の人の心を掴むのは、タレント歌手のライブステージで、大声をあげて熱狂したい欲求に、かなり近い。
 私が「古層」という言葉を使ってアプローチしていることは、「歴史」と「政治」を結びつけたり、「歴史」を自らの優位性の証にしようする欲求、すなわち、自分の外から何か良さそうな種を持ってきて自分の空虚を埋め合わせるのと違って、すでに自分の意識の深いところに幾層にも重なっているものを再発見していくところに主眼がある。
 それは、今ある自分自身を作り上げているものが何なのかを探るアプローチ。
 今ある自分自身の心には、歴史を通じて積み重ねられた様々なものが流れ込んでいる。 
 この歴史を通じて積み重ねられた様々なものの総合が、文化であるといってもいい。だからこそ、文化は心の糧なのであって、余暇の活用の一つとしての知的教養を着飾った鑑賞物ではない。
 自分の心が、単純に自分個人の性格だけで決まっているわけではなくて、文化の蓄積によって整えられているということに少しでも気づけば、今ある自分自身の状況を、もう少し醒めた目で見られるかもしれない。

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京都でワークショップを行います。
2025年9月27日(土)、9月28日(日)
⚪︎石清水八幡宮から京田辺あたりのフィールドワークを行います。
*いずれの日も、1日で終了。
 詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
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新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております。




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