以下の内容はhttps://kazetabi.hatenablog.com/entry/2025/08/15/002738より取得しました。


第1597回 道すがら

 

        2、3ヶ月前に、津森絵理子さんの「道すがら」という本のことを紹介させていただいた。
 昨年の6月、私のワークショップに参加された時の対話がきっかけとなって、一年くらいかけて、二人で並走しながら創り上げた本。
 これまで10年以上撮り続けた写真や、綴られた言葉は、自分自身の深いところと向き合うために成されていた行為なので、誰かに対して何かを主張するようなものではなく、ましてや、自己顕示欲や自己承認欲求とは無縁のものだった。
 私が、それらの写真や言葉から感受したものは、近代的価値観に染まった現代社会でやりとりされる情報や記号を剥がしたところにある、普遍的とも言える人間の魂であり、それは、私が深い関心を寄せている古代人の心にも通じるものだった。
 だから、この津森さんの写真や言葉に、西行法師の歌心を重ねても、ごく自然に溶け込むものがあった。
 近代的価値観に染まり切った自我に対して、なんの疑問も持たずに、その思慮分別を処世に結びつけて、人より優位であることだけを目的に生きている人には届かなくても、この近代的自我に対して、羞恥や、葛藤や、切なさや、哀しみを感じながら生きている人の心とのあいだには、橋を架けられるのではないかという思いで、この本を編み込んでいった。その数が、多いとか少ないとかはどうでもいい。そんな計算よりも、「道すがら」を通して架ける橋が、私自身が古代人の心を探求している動機と同じく、未来に架かる橋だという自分なりの確信の方が大事。
 近代的自我を軸にした価値観の中にどっぷりと浸っていると、この価値観に対して何の疑問も持てなくなるが、この価値観は、長い人類史のなかで、きわめて限定された時期に生じた特殊なものでしかない。
 この近代的自我の根っこには、「万物の尺度を人間に置く」という価値観があるのだが、この価値観は、現代だけでなく、歴史上、何度も、傲慢不遜に陥った人間に宿っていたもの。
 「万物の尺度を人間に置く」という言葉じたいが、古代ギリシャの詭弁家のプロタゴラスの言葉であり、この人物のモットーは、「大切なことが何であるかは人それぞれであるから、他人を説得し状況を自己に有利なように展開する方法こそが大事」ということ。プロタゴラスは、いかに相手を論破するかを競う弁論術の始祖だが、これはまさに、現代社会の様々な場面で、優劣や正当性を競うための処世術である。
 「万物の尺度を人間に置く」価値観は、プロタゴラスより遥かに歴史を遡って、「ギルガメッシュ神話」などにも描かれており、そうした古代神話のエッセンスが編集されて旧約聖書は編まれている。
 西欧世界は、「万物の尺度を人間に置く」価値観の傲慢さをたしなめるために、唯一絶対神を創造した。しかし、一神教の「神」を絶対的な尺度としてしまうことで、異なる一神教の「神」との対立を生み出すことになった。
 古代日本は、「万物の尺度を人間に置く」価値観に陥る人間をたしなめるために、唯一絶対神ではない「かみ」の存在を見出した。
 万葉仮名で、「かみ」は迦微と記されていた。迦は「巡り合う」、微は「かすか」という意味である。
 西行の、「何事のおわしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」という歌が、日本人の心に生じる「かみ」を象徴している。 
 西行は、今から900年も前に生きた人物だが、今から350年前に生きた松尾芭蕉にとっても、心の師だった。
 日本人にとっての「かみ」は、時代を超えてつながっていく。
 それは、それぞれの時代ごとに、その「かみ」を乗せて運ぶための橋を架ける人が現れるからだ。
 津森さんの「道すがら」は、大袈裟な言葉のように思われるかもしれないが、西行の歌と同じく、「かみ」を乗せて運ぶための、この時代の橋である。
 日本は、「万物の尺度を人間に置く」という価値観を、永続できない宿命がある。さらに、唯一絶対神を尺度に置くこともできない。
 その理由は、日本の自然風土にある。
 ほぼ宿命的に起きる火山の大噴火、巨大地震、毎年のように襲ってくる台風など、自然の猛威の前に、「万物の尺度を人間に置く」価値観に執着し続けることはできないと悟る心が養われていく。日本人の祈りは、この諦観が、根底にある。
 その諦観の心は、プロタゴラスのように巧みな弁論術で相手よりも優位に立とうとする利口=抜目の無さとは、本質的に異なっている。
 さらに、この日本の自然風土のなかでは、自分が神じる神に依存する人だけが助かり、異端者は助からないという二元論が成り立たない。
 日本の自然風土は、この地で生きる人間にとって厳しい試練ではあるのだけれど、その試練は、いつか必ず通り過ぎるという希望とセットになっている。だからこそ、耐え忍んだ後の喜びを胸に描くことができる。
 しかし、人間のエゴが引き起こす修羅場は、終わる時がないという絶望を感じさせ、それがゆえに、生きていくことの喜びさえ奪っていき、生きる屍へと導く。
 自然が人間に与える試練と、人間が作り出す修羅場、どちらが人間の心を荒廃させるか、明らかだろう。
 このたびの津森さんの「道すがら」は、作家活動としてのものではなく、卵を産むように、ごく自然の行為なので、100部しか作らなかった。100人とのあいだに橋が架かれば、それでも十分だろうという思いで。
 しかし、本ができてから3ヶ月ほど経ち、在庫は残りわずか。なくなってしまえば、また産み落とせばいい。
 この本の大きな特徴は、この本と向き合った人たちから、とても真摯で丁寧な感想が寄せられていること。
 近年、SNSなどの普及で、知人が本を作ったとか、写真や絵の展覧会を行う際に、心がこもっているとは感じられない情報言語で紹介して、「おすすめですよ!」と結ぶメッセージが氾濫している。紹介している人自身が、本当に、その作品によって心を強く動かされているのか疑問で、多くは、関係性を維持するためのお付き合いなのではないか。
 そういう「おすすめ」は、もはや誰も信じない。
 自分が心を動かされてもいないのに「おすすめ」をやってしまうと、イソップ寓話の「オオカミと少年」のようになってしまう。もしくは、アンデルセン童話の「裸の王様」のように、自分ではつまらないと思いながら、周りと合わせなければいけないと思っているだけなのか。
 それはともかく、次に紹介する文章は、「道すがら」に対して寄せてくださった多くの感想のなかの一つ。
 ご本人の承諾を得て、ここに紹介させていただく。
 他の誰かが言っているような言葉ではなく、その人自身の中から生じた言葉であることが、とてもよくわかる言葉。
 この感想の何がすごいかというと、この感想を書くのにかけた時間。忙しい仕事に携わっていながら、こうして長い時間をかけるのは、相手に対して、何かを伝えたいからという理由だけではないと思う。
 自分が強く感じている何かが、いったい何なのか、自分で確認するために、時間が必要になる。そうした自分の感性と思考に橋を架けるための時間を通して、その人自身が、新たな認識を獲得していく。
 新たな認識は、その人にとって新たな世界像であり、この浄化作用を通じて、世界の見え方が変わってくるのだと思う。眼差しが変われば、世界が変わり、そして意識が変わってくる。
 この感想を寄せてくださったのは、国家公務員として、「この国の行く末」を深く考えざるを得ない立場の人。この国の問題を、ああだこうだと主張したり議論して終わりではなく、実際の活動に具体的につなげていかなければいけない仕事を背負っている人。
 政治的なメッセージのように大きな声で、そうした実務者に働きかけていく方法もあるのかもしれないが、小さな声でも、深いところに届けば、少しずつ、物事が動いていく可能性が、きっとあるのだと思う。
ーーーーーーーーー
 
初めまして、道すがら を購入させていただきました⚪︎⚪︎と申します。
突然のご連絡を失礼いたします。
道すがら は、佐伯さんのfacebookで知りました。
佐伯さんには、京都のワークショップに参加した際、一度だけお会いしています。
「道すがら」を拝見させていただき、じんわりと胸を打たれました。
「誰かに橋をかけるかもしれない」という言葉を目にして、とりあえず感じたことをお伝えしたい、という気持ちが湧いてまいりまして、勝手ながらメールをさせていただきました。
 本でつづられていることを、勝手な解釈で自分に引き寄せてしまっている気もしております。身勝手をご容赦いただけましたらと思います。
とても静かな写真の数々に驚きました。
生を捉えているのに、驚くほど静か。
そこにあるようで、届かない。
こちらとあちらとの間に、人の意識が創っている境界のようなものがある気がして。
その境界をまたいで、こちらもあちらも、互いに息をひそめているようで。
でももしその境界が溶けたなら、
五感が溶けるような深くしっとりとした生に触れられるような。
また、こちらとあちらの間も、もともと水のような確かで刹那なもので満たされていることに気付かされるような。
言葉の一つ一つは、抽象的なようで、スピリチュアルなようで、
でも確かに、筆者が感じられてきたことの輪郭を、
丁寧に切り取るように、押し出すように綴られているように感じました。
その輪郭は、わたしには全く分からないようで、
でも遠い昔に微かに触れたことがあるような気もして、
またきっとそれは、幼い頃の誰にでも経験があるような気もして。
知らず知らずのうちに、人は暮らしの現実的な部分ばかりをフォーカスしてしまい、その最大公約数のようなものが世の中のシステムなのだと思います。
私は公務員をしており、ある意味でそういったシステムの一部を整備する仕事をしています。
システムの整備を検討する際は、架空の最大公約数的な誰かに向けて手紙を書いているような、無為な感覚になることがあります。
整備されたシステムは、リアルに人の暮らしの一側面に影響を支える一方で、システムが人を吸い寄せ、人の素を搔きまわしているようにも思います。
人も原子の粒の集まりで、空気も水もそれは同じ。
とすれば、この世界はもともとは全部が粒であって、
その密度や集まり方が違うだけで、
時にその密度がそれぞれの方法で集まったものが、人であり、水であり、空気であるのかもしれない。
その粒と粒の間の距離は、粒自体の大きさに比べるととんでもなく遠くて、
本来人は、驚くほど“スカスカ”だと聞いたことがあります。
この視点からすると、人が物理的に他の人に触れられることは、物理的にはおかしなことで、本来は互いに触れようとも手がぶつからず、透過するはずなんだとか。
本を読ませていただいて、この”スカスカ”の部分に満ちているものの存在、
水のようにめぐっているようなものの存在(もしかすると、空隙、が巡っているのかもしれませんが)について、思いを馳せさせれられました。
この6月まで、奈良県に出向しておりまして、週末に一人、野山を駆け巡りました。
そこでは、ありのままの生に、紡がれてきた人の祈りに触れられる気がして、
夢中で巡りました。
日本に王権ができる前や、またその王権ができた後もその影響の及びづらい山々の暮らしの痕跡は、目の前に生にまなざしていたのではないか、と思わされます。
日々システムの整備に関わり、少しでも生に、素に迷惑をかけない手紙にしたいと思いながらも、やはりその架空の最大公約数的な誰かに向けて手紙を書いています。
時折心が詰まることはありますが、道すがら は、それでも巡る水のようなものの存在を自分に引き寄せ、心を潤してくれるように感じています。
紡がれていた言葉の一つ一つは、
触れたことのない悟り人の感覚空間に招かれたようで、
身近な存在の見たことのない表情と、触れたことのないような言葉ばかりで、
深淵で、魅了されました。
また、対照的に、自分の中の利己的で自己顕示的な部分が露にされ、
自省を促されるような気持ちにもなります。
しかし、言葉の多くはよく分かりません。
ですが、その一つ一つに、
津森様が生と向き合ってこられたで紡がれたものだという気配が漂っている気がして、何度も見返してしまいます。
それがゆえに、
理解が進まず、でも何度もページをめくっては、
やっぱり分からないなぁ を、ある意味で安心して、一人繰り返し、
静かに拝見させていただいております。
見るたびに、前と違う何かに肉薄できるような気がして。
うまく言葉にできず恐縮です。とても心に残る写真と詩でした。
ありがとうございました。
追伸:
佐伯さまがfacebookで書かれていた ”誰かの心に橋をかけるかもしれない” という言葉が妙に心に響き、普段感想を寄せるようなことは滅多といたしませんが、気持ちが動かされました。
感想を書き始めてからお送りするまで、1か月近くを要しました。
普段表現する内容ではなかったからか、自分の業(自己顕示欲のようなもの)がこべりついたような文章になってしまい、とてもお送りする気になれませんでした。
しかし拝見する度、写真と文面にこちらの心が澄んでいく感じがあり、時間をかけて写真集の表現空間に引き寄せられていったように思います。
身勝手な受け取り方が過ぎるのでは、という心配をしていましたが、こうした感覚世界の感想を言葉にできたのも、他者とこうした内容を交わしたこともこれが初めてで、
深い安らぎをいただいています。
貴重な縁をつないで下さり、誠にありがとうございました。
またよろしければ、ごくごく微力にしかなりませんが、
当方のfacebookでもご紹介させていただけましたらと存じます。
ご協力したい、という気持ちもありますが、
ほかの誰かにも橋が架かってくれたら、という想いでおります。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「道すがら」の内容、購入については、コメント蘭にホームページアドレスを記載しましたので、そちらでご確認いただけます。
https://sounds-in-silence.stores.jp/




以上の内容はhttps://kazetabi.hatenablog.com/entry/2025/08/15/002738より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14