広島への原爆投下から80年。
「あの北朝鮮ですら核兵器を保有すると国際社会の中でトランプ大統領と話ができるぐらいまでにはいく」のだから、「核武装が最も安上がりで最も安全を強化する策の一つ」と主張する参政党のさや議員の単純思考に、なるほどガッテンする人が、今、日本社会にどれくらいいるのだろうか。
こうした単純思考は、別の新たな単純思考に対しても安易になびいてしまう。その数が膨大になった時こそが、もっとも恐ろしい社会状況だ。
なにゆえに、ここまで思考に粘り強さがなくなった大人が、これほどまで増えてしまっているのか?
平和の問題についての発言であるにもかかわらず、「安上がり」という言葉に象徴されているように、さや氏の思考は、品がない。
現在社会では、ネット上も含めて、様々なところで議論や対話が行われているが、メリットとデメリット、損か得か、合理性があるかないかで単純明快に相手の言動を切り捨てる論調が優位になっていて、その単純明快さを賢さと判断する間違った社会風潮がある。
こうした合理性に基づく判断は、非常に短期的な目線でしかなく、それゆえ思考の粘りがないのだが、その論の受け手側にも思考の粘りがないから、長期的な目線での粘り強い思考は、まどろっこしいものだと切り捨てられてしまう。
たとえばガザとイスラエルの問題。
昨日の参院予算委員会で、れいわ新選組から初当選した伊勢崎賢治氏が、「イスラエルの蛮行を止めるのに残された外交手段は、パレスチナの国家承認しかない」と首相に求めた。
れいわ新選組は弱小政党だから発言時間は短く、しかも国会答弁の中という制限があるので、こうした発言だけで、伊勢崎さんの頭や心の中を読み取るのは難しい。
伊勢崎さんには、2011年の東北大震災の前後、4回にわたって風の旅人に連載していただいた。
伊勢崎さんは、「紛争解決請負人」などとも称されるが、この肩書もまた思考の単純化であり、風の旅人では、そうした単純化の論説を伊勢崎さんに求めたわけではなく、むしろその逆で、複雑なものを複雑なまま伝えることだった。
伊勢崎さんは、人権や博愛や平和などの美しい言葉の裏側の欺瞞や狡猾さや歪みを知り尽くしている人だ。
伊勢崎さんの活動の出発点は、インドの世界最大規模のスラムに住み込み、非暴力で体制に立ち向かって人権を取り戻す住民組織を束ね、その運動を指導することであったけれど、その方法論は、一筋縄ではいかない。なにせ、スラムに暮らす人々は、「無知」であり、その無知が体制に利用され、その無知が、分裂と暴力につながりやすいからだ。
それでも、まずは自らの無知によって自分たちが不条理な状況に陥らされているという怒りを刺激するところから、事を始めるしかない。
そのようにして、いろいろな事を成し遂げてはいくものの、伊勢崎さんは、「非暴力」の限界も知り尽くすことになる。
その後、伊勢崎さんは、シエラレオネ、ケニア、エチオピアに赴任し、農村総合開発を指揮したり、アフガニスタンでの軍閥・武装勢力の武装解除を指揮したり、シェラレオネや東チモールなどでの活動では、革命運動が血みどろの内戦にしかならず、子供たちが殺されるという人道主義者が声高に訴える表側の悲劇と並行して、子供たちが、ファッションを身に付ける感覚で自ら進んで冷血な殺戮者になっていくという裏側の悲劇と向き合わざるを得なくなる。
こうした世界の裏表を見尽くしてきた伊勢崎さんは、福島原発事故のすぐ後に発行した「風の旅人」の第44号で、次のようなことを書いている。
「FUKUSHIMA以降、放射能という新たな恐怖、脅威は、日本国内に、”平和を希求してきた”日本人社会に、新たなレジームをつくりつつある。単純に、反原発か否かが、踏み絵になっている。それで人間の全人格が決まるような。かつて、九条護憲か否かがそうであったように。
放射能への恐怖から、石垣島に移住する「母性」に罪はない。自分の身を犠牲にしてまで子を護る「母性」は、非のうちどころのない最強の人間の良識である。
しかし、「排他性」は、この「母性」をも利用する。いや、「母性」が集団化し、熱狂となると、「排他性」を先導さえするだろう。もし、全ての原発の安全停止が、”即座”になされなかったら、母性は、「ならず者」が原発を狙う未来に怯えるようになる。たぶん、日本の「母性」の熱狂は、日本の軍事費の増大を促進するだろう。
放射能への恐怖を源泉とする「排他性」は、「ならず者」への恐怖を源泉とする安全保障上の「排他性」と同質のものである。このことに気づいて欲しい。」
奇しくも、このたびの参議院選挙で初当選をした参政党のさや氏は、選挙戦の最中、「明日、必ず勝利を手にして、私を皆さんのお母さんにしてください!日本人のために働くお母さんにしてください!」と連呼していた。
「この国を守るため」の母性をもとに、「あの北朝鮮ですら、核兵器を保有すれば米国と対等に向き合うことができる」と導かれる単純な論理。そして、この国に暮らす外国人は、自分の子供たちに危害をくわえる可能性が大きい「ならず者」であるという排他性の先導。そうした「母性」を軸にした熱狂は、伊勢崎さんが13年前に書いたように、日本の軍事費の増大を促進する力になる。
伊勢崎氏は、反原発運動において、原発に賛成か否かによって人間の全人格を決めてしまうような排他性は、さや氏の「排他性」と裏表の関係であることを指摘している。
今回の国会答弁におけるガザの問題においても、ガザを独立国にすればイスラエルとの紛争がなくなるなどと、伊勢崎さんは単純に考えているわけではなく、あくまでも日本の外交手段としてのパレスチナの国家承認。西側諸国が一枚岩でイスラエルの蛮行を認めているわけではないという強い意思表明をする事以外に、「自信を持って攻撃をし続けているイスラエル」を怯ませる力にならないということにすぎない。
さらに、このことは、日米地位協定にも関わってくることで、伊勢崎さんは、「日米軍基地が他国への攻撃に使われそうな時、日本がそれを拒否する権利を地位協定の中で担保する」ことが、日本の主権を守るうえで重要だとし、石破首相に、そうした問題意識が残っているかと問い正した。これは、さや氏の主張するような、自らも核武装するという対立概念を持ち出して、アメリカと対等になれということではない。
日本の主権を国際的にどのように確立していくかという哲学と、その方法論の問題なのだ。
このたびのトランプ関税問題における日米間の交渉で、関税を15%に抑える見返りとして、日本からアメリカに5500億ドル(約80兆円)の投資を行い、「利益の90%はアメリカの納税者、10%が日本側に分配される」といった内容を、トランプ大統領側が、交渉の成果としてアピールしている。
このことに対して、「またしてもアメリカの言いなりになっている。屈辱的だ。アメリカ追従をこの際きっぱりやめろ」的な論調が拡散しているけれど、現実は、そんなに単純な思考で乗り越えられるものではない。
アメリカ側のアピールは、日本がアメリカに投資をして得られた経常利益の90%をアメリカがとることを意味していない。
アメリカに投資をして工場建設をすることになっても、それを行うのは、日本政府ではなく、あくまでも企業だ。
それらの企業に対して、日本政府は、政府系金融機関を通して、利息などの条件を割安に設定して貸し出すことしかできない。
そして、アメリカに工場を作ることになれば、工場建設においてアメリカの企業や労働者にお金が落ちる。人を雇えば、賃金や、所得税、そして地方税や法人税がアメリカ側に入ることは当たり前。世界中のどこに投資しても、その投資資金の大半は、投資先に還元され、企業が得る最終利益は、そのなかのごく一部でしかない。
企業は、そのわずかな最終利益から株主に還元し、残りを内部留保にまわすだけのこと。それが当たり前の企業活動だ。投資額の10%でも最終利益が得られれば、少なすぎるということはない。極端なことを言えば、投資に対して赤字にならなければ、持続可能性は維持できる。
どんな場合も、リスクを負うのは投資をする側であり、トランプ大統領が言っている「日本だけがリスクを負って、アメリカはリスクを負わず、90%の利益を得ることになる」というのは、賃金や税金や工場建設における経済効果など全て含めれば、どこの投資話でも同じである。ようするに、10%と90%の話は、選挙のためのアピールだと思えばいい。
そして約80兆円の投資額というのは、日本の政府系金融機関が、極めて良い条件で日本企業に貸し出すお金の枠組みということだろう。
企業は、アメリカ側が指定する範疇の産業分野で、勝算があれば、その話にのる。勝算がなければ、誰も手を挙げない。そんなことは経済原理のなかで常識であり、いくら政府といえども、企業に対して投資話に乗ることを強要できない。
アメリカと日本の政府のあいだで、こうした商談がまとまっても、実行段階で、どの企業もアメリカへの投資を行わない判断に至ることは、あり得る。だから、アメリカ側は、その進捗状況を見極めて、今後、関税を上げる可能性もあるよと恫喝している。
それはそうだろう。日本としては、そんな恫喝は当たり前のことで、今は時間稼ぎをすることが重要だ。そのあいだに、関税が50%になっても大丈夫なように、何かしらの手を打っていくことを粘り強く思考していけばいい。
その選択肢として、アメリカ市場に依存した経済の修正ということもありえる。
これはバランスの問題だ。そうした判断の先には、アメリカが、アメリカ抜きの経済圏が大きくなっていくことへの懸念をもち、関税政策を改めざるを得ない可能性もある。
すぐに物事を決めてしまうのではなく、時間をかけて整えていく長期的な視点と思考こそが、様々な課題をソフトランディングするために重要。
どちらに賛成かという単純な論法は、暴力的な排他主義に陥ってしまうことは、歴史が証明している。
ガザとイスラエルの問題も、長い目で見ればどうなのか?
私は、南アフリカのような道筋を辿るしかないのかもしれないと思っている。
古代から、民族の十字路であった中近東は、国境が無数に引かれている時は戦いが繰り返され、一つの国が治めた時に、長期的な平和が続いた。
もちろん、その一つの国の中では、差別と抑圧があったが、時間の経過のなかで多数を抑圧支配し続けることが困難になる。
古代ローマ帝国においても、セプティミウス・セウェルスや、その息子のカラカラ、そしてマクリヌスなど、植民地だったアフリカ地域出身の皇帝が生まれたが、黒人への差別が激しかった南アフリカでも、遂にはマンデラが大統領になった。
しかし、こうした私の考え方は、今すぐの解決につながるものではない。
思考は、左右に分かれた一方につくための答え合わせではなく、重層的に積み重ねていく行為であり、その重層性こそが、単純明快な排他性に対する抵抗力だと思う。
私は、昔から多数派に所属できたことがなく、いつも少数派にいたので、多数派による排他性に対抗するために、自分の頭で思考を重ねた。
単純な論考だと、数の論理で決まるから、少数派は多数派に勝てないのだ。
大量部数発行の新聞や雑誌を相手に、単純な論考を展開するだけでは、小部数の風の旅人は、存在感ゼロの媒体にしかならなかった。
そうした状況を屈辱だと感じて、単純な論考のまま声を大きくするという戦法で支援者を集めようとしたデイズジャパンという媒体もあったが、そこから性暴力という人権侵害が起きた。
広河隆一氏は、権力に対抗する手段としてのメディア媒体を持ちたがっていたが、それさえ持てればという発想は、それを持ったことへの慢心と、それを持たないものに対する優越感や支配欲、その結果としての暴力的行為へとつながりやすい。
アメリカに対する日本の主権の問題も同じで、単純な論考で同じ土俵に乗ろうとする思考は、「北朝鮮のように核さえ持てば」という発想につながり、仮にそれを持ってしまえば、持たないものへの優越感や支配欲をつのらせ、暴力的行為を引き起こす可能性がある。
国会答弁で、石破首相は、伊勢崎さんに対して、「おそらく(伊勢崎氏が)書かれた本をいちばん読んでいるのも私と思っています」「私は今でも伊勢崎さんのことを先生だと思っています」と敬意を表した。
だとすれば、石破首相は、単純化できない複雑な状況を、右か左かの選択ではない舵取りで乗り切っていかなければいけないことを、十分に承知しているはずだ。
選挙に負けた責任をとって辞任することが、責任をとることでないことも。
少数与党となり、針のむしろのような状態での政権運営を、自らが担うことは、自分の立場を守りたいというエゴではなく、あくまでも志のためということが伝わるようにと、自分の言葉で応え続ける姿勢。
首相が変われば、現在の複雑な状況が一新されるわけではない。というより、早急に一新されるようなことで、よい結果につながることなど、ありえなくて、むしろ、それは危険なこと。
私たちの社会の本当の危機は、思考に粘り強さがなくなった大人が、これほどまで増えてしまい、さらに増えていくかもしれないところにある。
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