東京のPGIギャラリーで、「土佐白金紙」を使用した10名の写真家によるプラチナプリントの写真展が開催されています。
10名のうち、川田喜久治、井津建郎、志鎌 猛、八木清の4名は、風の旅人の誌面で何度も紹介してきた写真家でもあるので、さっそく拝見してきました。
それほど大きくないギャラリーに10名の写真ですから、一人ひとりは数点ずつで物足りないかもしれませんが、他の写真家の作品との呼応関係が、見どころになってくると感じました。
とくに、川田さんの「地図」と、井津さんの「もののあはれ」シリーズの呼応に、心奪われました。
川田さんの「地図」は、戦後かなりの時間が経ってから原爆ドームの内壁の染み(人間が原爆によって焼き尽くされた現場)を撮ったものなのですが、井津さんが撮った能面の写真と響き渡って、何ものかが呼び出されそうな感覚になります。
能面は、彼岸と此岸をつなぐ面であり、その境界性の揺らぎを、井津さんは、微妙な光のなかで見事に捉えながら、能面を通じて、日本人の祈りの祖形を、静かに伝えています。
川田さんは、原爆ドームの撮影に関して、「直後だと、わからない。時間を経過しないと、見えてこないものがある」と仰っていました。
戦争のすぐ後の生々しい状況は、確かに、人々の心に衝撃を与え、訴えるものがあります。しかし、その衝撃度の強さによって、逆に見失われてしまうものもあるし、その崩壊したものが再構築されてしまうと、かつて受けた衝撃もすっかり忘れさってしまう。
人間の記憶の深いところに残り続けるものとは何なのか?
人との出会いにおいても、一瞬の衝撃とか興奮を覚える出会いというものがあり、それはそれで印象的なものですが、静かな出会いであったにも関わらず、後々まで気になって仕方がないという出会いがある。
そうした感覚は、おそらく、今この瞬間ではなく記憶の深いところに流れ続けているものと、何かしらつながっているからかもしれない。
その深いところの記憶は、過去から現在そして未来へと引き継がれていくからこそ、いついつまでも気になる。
能面の抑制のきいた面が与える印象も、そういう類のものです。一度見たら、記憶の表層で忘れていても、記憶の深いところに残り続ける。
表現を志す人のなかでも、目の前の現象を追う人と、過去から現在そして未来へと連なる何かにアクセスしようとする人がいると思います。
その両者は、作品を隣に並べてみると違いがよくわかる。異なる表現者のアウトプットであっても作品が呼応している場合は、作家が見通しているものの深さが近いということ。呼応しない場合は、一方は目の前の現象にすぎず、他方は、もっと遠く、深いところを見ており、両者のあいだの見通しの深さが違うということ。
私は、風の旅人の誌面を編集する際、とくにそのことに注意を払っていました。
今回の展示のように10名の作品が集まると、作品のあいだの呼応も興味深いし、逆に、ゴマカシが透けてみえたりもします。
ゴマカシというのは、けっきょくギミックにすぎないということ。ギミックというのは、人の心を惹きつけることが目的化された仕掛けや工夫やテクニック。この種のものは、感性とかフィーリングという言葉でカムフラージュして、その場では意気投合したり楽しく盛り上がっても、後々まで気になってしかたがないという出会いにはなりません。
もちろん人それぞれの好みの違いもありますが、表現ということに関していえば、部屋の壁のインテリアのように飽きたら交換する類のものか、何年も同じものでも決して飽きることがないものかの違いが生じます。
これはまあ人間付き合いも同じですが、とりわけ表現においては、時代を超えるか、そうでないかは大きな分かれ目になります。人はいつか死ぬけれど、表現は、数百年、数千年という時空を超えて生き続けるものもあるわけですから。
写真において、プラチナプリントというのは、人間の寿命以上に品質を保ち続けるプリント技法とされているので、その技法で表現するのであれば、やはり、未来世代へと受け渡しができるものの方がいいでしょう。
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「黒痕、沈む光 –土佐白金紙–」
2025.7.9(水) - 9.6(土)
*夏期休廊:8.12(火)-8.16(土)
PGIギャラリー
106-0044 東京都港区東麻布2-3-4 TKBビル3F
TEL 03-5114-7935 Mail: info@pgi.ac
月-土 11:00-18:00
日・祝日 展示のない土曜日 休館