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第1578回 ほんとうの幸い

恐山

2016年10月から始めた「日本の古層」のプロジェクト。
 2020年から毎年一冊ずつ本という形にすると決め、2024年10月、5冊目となる「かんながらの道」を作り、今年の2月には、これまでの総まとめとして「かんながらの道」の写真展を開催しました。
 その後、さて次はどうするのかと、なんとなく見え隠れしながらこちらを招いているものの気配を感じながら彷徨っていましたが、ようやく具体的な輪郭が整ってきました。
 そして、この宮沢賢治の言霊が、一挙に全体像を掴む力となりました。
「われらの祖先は いま  いちめんの藍のひかりとなって野にゐる。われらがここにする仕事は すべて祖先のたましいから 萌え出たことである。」
 日本人は、自分のことを無宗教だと思っている人が多いですが、イスラム教とかユダヤ教といった厳しい戒律が課せられるものを「宗教」だと定義づけているからそう思うだけであって、実際は、日本人の心にも宗教が宿っています。
 その日本人の宗教は、単純明快な教義で説明できるものではないですが、大きな軸として、神仏習合があります。
 本地垂迹、すなわち八百万の神々もまた仏の化身。この世の現象は全て仮の姿であり、その根元に仏があるという考えですが、その仏も明確なる固有の実態を持たないものであり、これは、万葉人が、「かみ」=迦微としたコスモロジーと同じです。
 迦は「巡り合う」、微は「かすか」という意味であり、 日本人の「かみ」への祈りは、自分の理解を超えた何事かに対する「畏れ多さ」が元にあり、それは、自然界の全ての営みの背後に隠れている力に対する心の在り方です。
 この「かみ」=迦微に対する信仰の道が、昨年発行した「かんながらの道」ということになりますが、日本人の宗教観として、もう一つの軸となるのが、祖先信仰でしょう。
 この祖先とは、自分と同じ血統を指すとは限りません。
 今を生きる自分に流れ込んでいる全ての過去が、自分の祖先。だから、その祖先に対する感謝と敬意は、歴史や文化に対する感謝と敬意ということになります。
 つまり、本来の祖先信仰とは、自分は今一瞬に分離された時間の中の存在物ではなく、過去から未来へと連綿と連なっている宇宙的な相互関係のなかにいることを素直に受け止められる心情の上に成り立っています。
 祖先信仰というのは、重々無尽縁起、無限に複雑に相互浸透しあう存在のネットワークそれじたいに対して、自らを謙虚にする心の在り方と言えるでしょう。
 宮沢賢治の言霊、「われらがここにする仕事は すべて祖先のたましいから 萌え出たことである。」の真意は、そこにあります。
 近代合理主義が、人間の生活圏や人間の心の隅々まで浸透している現代には、さまざまな歪みや軋みがありますが、その根本的な原因は、「重々無尽縁起」というコスモロジーが放棄され、「私は私、世界は世界。」という分断のコスモロジーが基軸になっているからではないでしょうか。
 その分断のコスモロジーの中での個人的なサバイバルの知恵は、即時的で断片的なハウツー情報。結果として、「関係」や「影響の連鎖」を実感するよりも、自分の世界と、自分とは別の世界を分けて考えることが当たり前になる。
 そうした思考特性や行動特性が、幸いにつながるのであれば、とくに問題視する必要はないでしょうが、それは宇宙の摂理と異なっているので、矛盾が生じてしまうことは必然。
 『銀河鉄道の夜』において、ジョバンニがたどり着くのは、「ほんとうの幸いとは、みんなの幸いのために自分を使うこと」という境地。この境地は、宇宙の縁起を当たり前のこととして実感することで得られるもの。
 ところが、縁起を最も深く感じる瞬間というのは、「苦しみの共有」や「死の気配」を通してなのだけれど、現代社会は、「死・病・老い・障害・悲しみ」を不快なものとして遠ざけ、日常から切り離しました。その結果、「自分は他者と共にある」「生も死も他とつながっている」という縁起的感覚が持ちにくくなっている。
 日本というのは、世界のなかで際立って仏教が多彩に展開してきた国ですが、そのなかでも地蔵信仰は、きわめて日本特有の性質を帯びています。

仏ヶ浦の地蔵堂

日本における地蔵菩薩は、他の仏が救えない地獄にまで自ら進んで降りていき、罪ある者でさえ救済する存在です。
 地獄という究極の事態において誰が助けてくれるのか? という問いに対し、地蔵こそが最後まで寄り添う仏とされたのです。
 地獄のような光景が広がる恐山においては、親より早く世を去った子供達も、罪人です。
 子供達は、地獄を出るために、賽の河原で石を積むという徳を重ねて仏塔を作ろうとするけれど、鬼が出てきて、それを崩してしまう。その子供達に寄り添って、救いの手を差し伸べるのが地蔵菩薩
 その地蔵菩薩が、道祖神となりますが、道祖神は、ケガレが入ってきやすい境界を守る神とされます。
 現代的な感覚では「守る=攻撃して追い返す」と思われがちですが、道祖神の「守り」はもっと包括的で、非暴力的で、関係を作り直すような方法です。
 道祖神が「旅の無事」を守るというのは、境界の通過を安全にするということ。
 道祖神は、「外からの災い・異質なもの」を、排除するのではなく、けがれを引き受け、浄化する働きを担います。
 道祖神は、「塞の神(さえのかみ)」でもあり、塞の神には、障り(さわり)を祓い、生を導く力があります。
 災いを受け止め、変化させ、つなぎ直すことで、秩序と生命力を保つこと。 つまり、「災い=けがれ」と「生の力」は紙一重。それをどう扱うかが、日本における信仰の核心です。
 禍福は糾える縄のごとし。
 『銀河鉄道の夜』のジョバンニの言葉、「ほんとうの幸いとは、みんなの幸いのために自分を使うこと」は、地蔵菩薩道祖神塞の神のように、けがれを引き受け、浄化する働きを担うところに、その本質があるのでしょう。
 芸術表現の本質も、現代世界におけるアート活動のように、世界から分離された自己が自らの存在感を訴えるためではなく、本来は、障り(さわり)を祓い、生を導くところにあったのではないでしょうか。

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京都と東京でワークショップを行います。
<京都>2025年7月26日(土)*キャンセル待ち、7月27日(日)
 *亀岡のフィールドワークを予定。
<東京>2025年8月30日(土)、8月31日(日)
*いずれの日も、1日で終了。
 詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
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新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております

陸山高田



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