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第1575回 日本史の深層に隠された県犬養三千代の「天ノ逆手」

県犬養三千代の念持仏と伝わる阿弥陀如来平安時代後半から鎌倉時代にかけて庶民のあいだに広がる浄土信仰(阿弥陀仏の救いを信じ、死後に極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰)を、彼女が既に抱いていた可能性を示している。(複写写真)

 経王寺(東京都新宿区)の住職、互井観章さんとの対話の続き。
 やはり、こういう話は、宗教家というか、実際に修行を通して真実探究につとめている人と対話した方が面白い。
 互井観章さんも、藤原不比等の後妻である県犬養三千代が気になっているらしく、法隆寺で公開されている県犬養三千代の念持仏が、なぜ阿弥陀如来なのか(阿弥陀如来を本尊とする浄土信仰は、平安時代後半から広まったのに)、そして、県犬養三千代が、自宅で拝み続けていたこの阿弥陀如来像の左手が刀印になっていることに対しての疑問を持っている。
 なぜならば、阿弥陀如来というのは、極楽浄土の如来であり、印相は、指で輪をつくるのが特徴だ。
 刀印というのは、魔を祓う特徴を持っているので、不動明王ならわかるが、阿弥陀如来には似つかわしくないと、互井さんは感じている。
 こういったところは、私も含めて、なかなか目が行かないところだ。
 私が感じ取れるのは、律令制の開始時期に県犬養三千代という女性が果たした特別な役割であり、それが、日本の歴史のなかで非常に大きな基礎になっており、日本文化を理解するうえでも、重要な鍵になっているということだ。
 県犬養氏というのは、もともとは屯倉の管理者で、壬申の乱の時、天武天皇の旗揚げの時からそばについて活躍した。
 県犬養氏は、犬を飼って屯倉を管理していた。これは、隼人など南九州の海人族の特徴。
 ただ、隼人という名は奈良時代に名付けられたもので、それ以前は、吾田の海人。
 律令制が整えられる前は、南九州の海人たちが、中央で祭祀を司る人たちと対立していたわけではなく、律令制という特殊な制度が、地方の反発を呼んだ。
 県犬養氏というのは、律令制の開始前から、畿内の中枢勢力と近いところにおり、県犬養三千代は、藤原不比等の後妻となる前、敏達天皇の子孫に当たる美努王(みののおう)に嫁ぎ、葛城王・佐為王・牟漏女王という三人の子を儲けていた。

京都 梅宮大社

 京都の私の家の近くに梅宮大社が鎮座している。ここは、平安時代初期、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子が創建したものだが、もともと梅宮大社は、平城京の時に、県犬養三千代によって、京田辺の木津川のほとりに築かれていた。
 橘嘉智子は、県犬養三千代の息子の橘諸兄の曾孫にあたるが、県犬養三千代の意思を受け継いでいる。
 現在、酒の神社としては、梅宮大社とは桂川をはさんで対岸の松尾大社が有名だが、本来、梅宮大社こそが酒神神社だった。名神大社である梅宮大社の場所は洪水の被害を受けやすいので、中世には衰退し、対岸にある松尾大社が、酒に関する権威を吸収していったのだと思われる。

京田辺市の大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)。たぶん、ここが、京都の梅宮大社に祀られている酒神=避けの神を、最初に県犬養三千代が祀ったところ。

 梅宮大社が酒神の本拠であるのは、祭神が、大山祇だからだ。別名が酒解神で、県犬養氏の祖神に位置付けられている。
 酒神というのは、避け神であり、境の神でもある。今でも、酒は清めに用いられるが、古代においても、酒は邪を祓うものだった。
 橘嘉智子が築いた梅宮大社の位置は、平安京にとって境の場所であり、県犬養三千代が築いた京田辺梅宮大社は、平城京にとって境の場所だった。
 古代、境界の守りを行なっていたのが、隼人や蝦夷など、辺境の民で、彼らには特別な霊力があると信じられていた。
 隼人(南九州の海人)は、門などの守りにつく際、犬のような声を発して邪気を祓う吠声という呪術的な行為を行なっていた。
 この南九州の海人の女神が、大山祇の娘のコノハナサクヤヒメであり、この巫女が天孫降臨のニニギに嫁いで海幸彦と山幸彦を産むので、南九州の海人の血は、女系を通じて皇統につながっている。
 この神話が現実世界のなかで反映されているのは、県犬養三千代の子の光明皇后が、聖武天皇に嫁ぎ、女帝の孝謙天皇を生んだことだ。しかし、孝謙天皇は女帝であり、生涯独身だったため、県犬養三千代の血も、ここで途切れてしまった。
 この県犬養三千代の意思を継いだのが、平安時代初期、嵯峨天皇の皇后になった橘嘉智子。彼女は、日本初の禅寺(檀林寺)を嵯峨野に作り、死ぬ時も、自分の遺体を道端に捨てよと言い残したとされるので執着のない女性のはずだが、息子の仁明天皇を即位させることに対しては、執着し、その結果、承和の変が起きた。
 橘嘉智子を支援したのが、藤原冬嗣や良房だが、彼ら藤原北家のルーツは、藤原房前と、県犬養三千代藤原不比等と夫婦になる前に産んだ牟漏女王である。
 この藤原北家の娘が天皇の皇后となって世継ぎを産んでいくわけだから、橘嘉智子の執念で仁明天皇が即位したことにより、後の天皇の血には、藤原氏だけなく、県犬養三千代の血が流れていることになる。
 そして、ここからが本題だが、県犬養三千代の祖の大山祇神は、三島明神だから、事代主と同じだ。
 神話というのは、同じことを、いろいろと別の角度から伝えている。
 出雲の国譲りの神話において、最後まで国譲りに抵抗したのはタケミナカタだが、事代主神は、国譲りに対して一切抵抗せず、「承知した」と答え、船を踏み傾け、天ノ逆手を打ち、青柴垣を作り、その中に隠れてしまったと描写されている。
 この「天ノ逆手」が何なのか、中世の頃より、いろいろ議論がされているが、明確な答えには至っていないようなので、洞察するしかない。
 この分野の研究者は、「天ノ逆手」のことを手を逆さに打つ呪詛と説明しているが、呪いは、今日的な価値観では、霊的な手段で他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらすものと限定的に理解されてしまっている。
 しかし、もともと「呪」というのは、「のろいをかける」という意味だけではない。
 白川静さんによれば、「呪」も「祝」も膝まづいて祈りを捧げているところを描いた漢字であり、「呪」は口に出して祈ること、「祝」は心の中で祈ること。
 この事代主の「天ノ逆手」が、県犬養三千代の念持仏に反映されていると私は思っている。
 事代主の「天ノ逆手」が意味するものは、陰に隠れながら、世に幸福を招き入れるための働きを行うこと。
 具体的には、託宣の神である事代主神は、国譲りという時代の価値観の転換後は、青柴垣という神籬(ひもろき)の中にこもることになるが、過去から伝えられたものを後の時代につないでいく重要な役割を担うことになる。
 具体的には、神武天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)は、事代主神の娘で、第2代綏靖(すいぜい)天皇を産んだ。この綏靖天皇の皇后、五十鈴依媛命(イスズヨリヒメ)もまた事代主神の娘で、第3代安寧天皇を産むが、この安寧天皇の皇后、渟名底仲媛(ヌナソコナカツヒメ)の父の鴨王も、事代主神の子である。
 表には、時の治世者として男が立っているが、世継ぎを育てるのは、母親の実家であり、事代主は、養育と教育を通じて、大事なことを後世に伝えていく役割を果たすことになります。
 もちろんこの神話は、事代主という人物が過去に存在していたことを示しているのではなく、過去から未来へと大事なことを伝えていくための仕組みを象徴的に描いている。
 こうしたことは、記紀の制作の背後に隠れている県犬養三千代や、彼女の夫の藤原不比等の個人的な願望ではなかった。
 私は、白村江の戦いで日本が大敗した後、太平洋戦争の後のGHQのように、国内に唐が入り込んできたのは間違いないと思いっている。
 日本書紀の記録にも、かなりの数の唐の人間がやってきている事実が記録されている。
 また、唐の侵略を防ぐために作られてたとされる山城も、その配置が、たとえば日本海側に一つもないことや、吉備の鬼ノ城のように、防衛には適していない山のてっぺんに築かれているとか、いろいろ確認してみると、明らかに唐が作ったものとしか思えない。 
 唐は、シルクロードなどにおいても交河故城などを築き、その中に狼煙台を設置しているが、白村江の戦いの後に築かれた日本の山城も、あれと同じ構造だ。 
 唐の人々が日本にやって来ずに、663年の敗戦から唐と交流がなかったのに、日本人だけで、藤原京を築いたり、大宝律令を整えたりできるはずがない。
 それゆえ、この時代の転換期において、日本の伝統をどのように守っていくか真剣に考えた人がいたとしても不思議ではなく、国譲り神話の事代主の「天ノ逆手」には、そのことが反映されていると私は思っている。事代主が、奈良時代よりも、はるか昔に存在していた人物ということではないのだ。
 県犬養三千代が考えていたことも同じであり、記紀で描かれているように、ニニギの天孫降臨という時代の新しい流れと対立するのではなく、調和を通して、前に進んでいくこと。仏の前に平等という仏教の理念は、その鍵となった。
 平安時代橘嘉智子の時代に、空海や円仁を中心に政策を具体的に実行していった本地垂迹もまた、その理念の延長である。
 全ての神々は、あくまでも仏の仮の姿であり、その仏もまた、実態があるようでないもの。
 それは、縄文からの「かみ」=迦微と同じもの。
 迦は「巡り合う」、微は「かすか」という意味となり、日本人の「かみ」への祈りは、自然界の営みの背後に密かに隠れている何事かに対する「畏れ多さ」を元にした、心の在り方だったと思われるが、だからこそ、仏教においても、他の国には見られないほど多彩な展開が可能だった。
 日本人にとって、表向きの形は違えど、本質は同じということだから。
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京都と東京でワークショップを行います。
<東京>2025年6月21日(土)、6月22日(日)
<京都>2025年7月26日(土)、7月27日(日)
 *亀岡のフィールドワークを予定。
*いずれの日も、1日で終了。
 詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/
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新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております。

法隆寺に二つある八角形の建物の一つ、西院伽藍の西円堂。『元亨釈書』など後代の記録では、718年、県犬養三千代の発願により、行基によって建立されたと伝えられている。


 




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