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第1574回 蛇の祟りと女性の霊性が関わる聖徳太子。

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聖徳太子の御陵の叡福寺北古墳(大阪府太子町)。太子の母の穴穂部間人と、妃の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)が合葬されている。

 女性の霊性が重要視された時代のことについて、昨日の続き。
 一昨日、経王寺(東京都新宿区)の住職、互井観章さんと古代の巫女について話をしていた流れで、善信尼たち飛鳥時代の3人の尼僧の話になった時、互井観章さんが、突然、「そういえば、善信尼たち尼僧の墓が、叡福寺のすぐ正面にありますね」と言い、私は驚いた。
 というのは、叡福寺にある聖徳太子墓所とされる叡福寺北古墳は、「三骨一廟」と言われるように3つの棺があり、最奥が聖徳太子の母親の穴穂部間人、手前の東西の二つが、聖徳太子と、聖徳太子の妃である膳部菩岐々美郎女の墓だとされているのだが、私は以前から、奇妙だなあと思ってはいたからだ。
 なぜなら、聖徳太子墓所といいながら、正面に穴穂部間人、手前の東西の二つが聖徳太子と膳部菩岐々美郎女であり、棺の大きさは、男性の聖徳太子のものがやや大きいにしても、三つの棺で装飾などは差別化されておらず、構造的には、用明天皇の皇后で巫女的な存在だった穴穂部間人を軸とした三位一体となっており、この聖域に、3人の尼僧の墓までくわわってくると、叡福寺は、女性の霊性が特別に重視された聖域だとしか思えない。
 私が、少し怪訝な顔で驚いた様子を見せたからか、互井観章さんは席を外して、念の為に確認してきましたと言いながら戻ってきて、「墓ではなく寺でした。善信尼らが聖徳太子の御霊を祀るために西方院を作っていますね。」と言った。
 普通に聞くと、「ああ、そういうことですか」で終わるが、話はそれほど単純ではない。
 なぜなら善信尼は、日本初の出家者であり、生まれは574年とされ、なぜか、聖徳太子と同じだ。
 聖徳太子が死去したのは622年とされるが、善信尼の方は、いつ亡くなったかわからない。
 問題は、聖徳太子墓所、叡福寺北古墳の石室が作られた年代で、これは、八角墳と見る説もある岩屋山古墳(奈良県高市郡明日香村)との酷似が指摘されており、「岩屋山式石室」は、7世紀後半頃だとされている。

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聖徳太子墓所の叡福寺北古墳の石室は、7世紀後半に作られた、この岩屋山古墳(奈良県明日香村)の石室と酷似している。被葬者は不明。下段部は方形であるが、上段部を八角形に築いた八角墳ではないかとされている。石室は、巨大で硬い花崗岩を用いており、精巧な切石加工がほどこされている。

 さらに、石室のなかに夾紵棺の痕跡が見られ、夾紵棺は、木または土の原型の上に布をあてて、その上に漆を塗っては布を貼るという作業を繰り返して板状に形成された棺のことで、これもまた7世紀後半に築かれた八角墳の牽牛子塚古墳(斉明天皇の陵墓の可能性が高い)で使用されている特殊な貴人のための技法だ。
 叡福寺そのものは、寺伝によれば、推古天皇が土地建物を寄進し、聖徳太子の墓守りの住む堂を建てたのが始まりとされ、その後、724年に聖武天皇の時代に壮大な伽藍が建造されたことになっているが、これは史実かどうかはわからず、諸説がある。
 それでも、叡福寺や叡福寺北古墳が現在残る状態になった時は、善信尼は既に他界しているはず。
 ならば、最初はこの場所に聖徳太子の小さな墓があり、その墓を守るために善信尼たち尼僧の寺が作られていたのだろうか。
 しかし、3人の埋葬者が眠る叡福寺北古墳が聖徳太子墓所とされているものの、そもそも日本書紀には、「是歳、太子薨。葬于磯長原(しながのはら)。」とあるだけで、聖徳太子が他の誰かと合葬されたという記述はなく、母の穴穂部間人や、妃の膳部菩岐々美郎女においても、死後の埋葬についての記録はない。
 この3人が合葬されているという話は、中世以降に広まったものだ。
 この謎を解く鍵を、どこに見出せばよいのか?
 実は、私が以前から気になっていたのは、この叡福寺北古墳の位置なのだ。
 このことは、以前、大阪の富田林市にある美具久留御魂神社(みぐくるみたま)を訪れた時に気づいた。
 美具久留御魂神社というのは、本殿は眞名井ケ原という山の中腹にあるが、三輪山大神神社と同じく山そのものを御神体とする神社であり、神社の背後の丘陵地帯に、古墳群(10基以上の横穴式石室を持つ小規模古墳群だが、その建造は、出土物の分析から6世紀後半から7世紀初頭の飛鳥時代とされる)がある。
 そして、この神社もまた、三輪山大神神社と同じく、第10代崇神天皇の時代の祟りと関係しており、この地にしばしば大蛇が出没したので、天皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」といい、出雲振根に杵築大社から生大刀・生弓矢を勘請させ大国主命の神体として祀らせたのに始まるという。
 三輪山の祟神である大物主も、神話の中では蛇の姿で現れるので、美具久留御魂神社の蛇が、大国主命の荒御魂=大物主であるのと同じ構造である。
 不可思議なことに、この崇神天皇の時代の祟りと関わる「蛇」の聖域、三輪山大神神社と、富田林市の美具久留御魂神社を結ぶライン上に、聖徳太子の叡福寺北古墳が築かれている。

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 美具久留御魂神社の境内に立つと、鳥居の向こうに二上山が見える。二上山と美具久留御魂神社の真ん中、それぞれから3.5kmの所に聖徳太子の御陵があり、この三つの地を結ぶラインを東に伸ばすと、三輪山大神神社となる。
 美具久留御魂の鳥居のあいだに見える二上山の稜線の形は、まるで蛇のようである。
 不可思議は続き、このラインを三輪山大神神社からさらに東に伸ばすと、宇陀の墨坂神社が鎮座しているが、この神社もまた、日本書紀によれば、第10代 崇神天皇の時代に疫病が流行した時、天皇の夢枕で「墨坂の神」と「大坂の神」を祀るよう命じられたことが始まりとされる。
 そして、この墨坂神社の境内にも、龍王宮という龍蛇信仰の痕跡がある。
 さらに、この龍蛇に関するラインを東に伸ばしたところが、室生龍穴神社で、ここは近くの室生寺より古い聖域で、奥宮として龍神がすむと伝えられる妙吉祥龍穴がある。
 ここからさらに東にラインを伸ばすと、伊勢の斎宮跡だ。斎宮は、聖徳太子墓所、叡福寺北古墳の石室と同じ7世紀後半に整えられた国家祭祀の聖域で、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する皇女(斎王)を住まわせるための宮である。これらの皇女は、アマテラス大神に仕える巫女という位置付けになる。
 斎王制度の起源は、壬申の乱の後、天武天皇の皇女の大来皇女(おおくのひめみこ)が伊勢に遣わされたのが最初とされ、制度としての確立は、女帝の持統天皇から元明天皇の頃と考えられている。
 叡福寺北古墳もまた、聖徳太子墓所とされながらも、母親の穴穂部間人、妃の膳部菩岐々美郎女という巫女に、善信尼たち3人の尼僧が加わり、女性の霊性が大きく関わる聖域となっている。
 そもそも、聖徳太子は、観音菩薩の化身または生まれ変わりであるという信仰に基づき、法隆寺の夢殿に聖徳太子の等身大の姿として救世観音が祀られているのだが、観音菩薩は、性別のない存在であるものの、女性的な慈悲や、女性的な性質を帯びた存在として信仰されてきた。
 聖徳太子霊性じたいが、非常に、女性的なものであると言える。
 聖徳太子の聖域である叡福寺北古墳、伊勢の斎宮、そして、龍蛇と関わってくる宇陀の室生龍穴神社、墨坂神社、三輪山大神神社、富田林の美具久留御魂が一直線に並んでいるのだが、この不可思議をいっそう補強するのが、このラインを美具久留御魂神社から西13kmの所に伸ばしたところに築かれた和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市)だ。 
 4世紀後半に築かれたと考えられている全長94mの前方後円墳は、考古学的には、上に述べた聖域のなかで最も古いのだが、幾つかのポイントにおいて、上に述べた大物主の祟りや巫女や龍蛇信仰と重なってくる。
 まず第一に、崇神天皇の時に起きたとされる大物主の祟りでは、天皇の夢枕に現れた大物主が、大田根根子に自分を祀らせるように指示をして、そのとおりにすると祟りが鎮まったと伝えられている。
 大田田根子がいたのは陶邑で、そこは須恵器の産地だった。そして和泉黄金塚古墳の周辺が、その須恵器製造場所だった。
 大物主の祟りが鎮められた話には続きがあり、高橋邑の活人という者が、大物主にお神酒を捧げたという記述がある。高橋邑の活人は膳氏であり、これは、叡福寺北古墳で聖徳太子と合葬されている膳部菩岐々美郎女の祖先である。
 和泉黄金塚古墳というのは、日本古代史において、非常に意味深で重要な古墳である。
 被葬者は3名、中心になるのが当初は男性という説もあったが、副葬品(玉類や装身具)として女性的装飾品の割合が目立ち、巫女のリーダーだった可能性が指摘されている。
 さらに、多くの副葬品が出土したが、2世紀末~3世紀中頃という古い時期の青銅鏡が6面も出土し、その一つに、景初三年(239年)という、魏の皇帝から卑弥呼が銅鏡百枚を賜った年が刻まれている。
 古墳の被葬者のうち真ん中が女性であれば、この女性が卑弥呼のような宗教的リーダーであったのだろう。
 そして2012年、二上山から東北4kmの上牧町の丘陵で三世紀後半の古墳が見つかり、銅鏡が出土したのだが、和泉黄金塚古墳から出土した景初三年(239年)の銅鏡と同型だった。
 この上牧久渡古墳群は、一つの丘陵に古墳時代初期から終末期まで各時代ごとに異なる6基の墳墓が築かれた珍しい古墳群で、さらに、弥生時代の祭祀道具である銅鐸も出土した。
 これらの事実から、上牧久渡古墳群は、弥生時代から長期間にわたって祭祀に関わる聖域であったと考えられる。
 そして、この場所で最も古い古墳から出土した銅鏡と同型のものが、和泉黄金塚古墳の、宗教的指導者と思われる女性の被葬者の副葬品になっており、それが、古墳の建造時期よりも150年以上も古い景初三年(239年)なのだ。
 つまり、和泉黄金塚古墳の地域のリーダたちが、150年のあいだ卑弥呼の鏡を保持し続けていて、和泉黄金塚古墳が築かれた4世紀後半の巫女のリーダーの副葬品として埋葬したのか、それとも、文字記録として残っている景初三年(239年)の卑弥呼の鏡を女性リーダーの霊性の象徴と認識していて、それをどこかから調達して、和泉黄金塚古墳の女性リーダーの副葬品にしたのか?
 4世紀後半の人々が、どういう考えで、こうした仕組みにしたのかはわからないが、7世紀の飛鳥時代から8世紀の奈良時代にかけて、数多くの女性が天皇として即位した時代、この和泉黄金塚古墳のことが、強く意識されていたのではないだろうか。
 巫女がリーダーで、景初三年(239年)という魏から卑弥呼が賜った年号が刻まれた鏡が副葬品になっている和泉黄金塚古墳。
 和泉黄金塚古墳の被葬者3人の骨の保存状態が完全ではないため、性別判定がやや不確かだが、女性を含む3人の被葬者という構造は、聖徳太子墓所である叡福寺北古墳と同じである。
 卑弥呼の鏡のある和泉黄金塚古墳から、美具久留御魂神社、叡福寺北古墳、西方院、二上山三輪山大神神社、墨坂神社、室生龍穴神社、伊勢の斎宮跡と、一本のラインで結ばれる聖域は、女性の霊性と、龍神と、その祟りが重なっている。

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 果たして、この一本のラインでつながれた聖域は、いつ形成されたのか?
 神話ででてくる第10代崇神天皇の時代は、昨日も書いたように史実ではなく、祭祀転換の時代を象徴的に示しており、この時代の祟りは、天災ではなく、戦いを繰り広げていたという記述から人災が絡んでいたと思われる。
 この時、それまでの女巫の自己犠牲的な祈りでは祟りは鎮まらず、まずは崇神天皇が沐浴斎戒を行い、(斎は、心身を清く保つこと。戒は、つつしみ、誤ちを戒めること)、男性の大田田根子を陶邑から呼んで、その祭祀によって祟りを鎮めた。
 そして大物主の祟りというのは、「祀らなければ災を起こすが、きちんと祀れば守護神になる」という性質であり、これは、後の御霊信仰(無念の死を遂げた者たちの魂を鎮めて、怨霊を御霊に転換する)の典型的な構造である。
 史実としての御霊信仰の起源は、奈良時代の740年、九州で乱を起こした藤原広嗣に対してのものであり、聖武天皇は、この乱を非常に恐れ、平城京から恭仁京難波京、紫香楽京と遷都を繰り返し、そこから奈良の大仏造営へと至った。
 そして広嗣の死後、祟りだとされる様々な災いが起きたため、南都鏡神社(奈良県奈良市)で、広嗣の霊が祀られた。この場所は、藤原広嗣の屋敷跡とされるが、三輪山大神神社の真北16kmのところである。
 この時代、聖武天皇の皇后として、仏教に深く帰依して、宗教的な政策に強く関わっていたのが光明皇后である。741年、国家鎮護のため、国ごとに、国分寺国分尼寺を1つずつ設置する詔が聖武天皇によって出されたが、この政策の中心にいたのが光明皇后であり、光明皇后が開いた法華寺は、日本の総国分尼寺とされた。
 斑鳩法隆寺も、光明皇后と、彼女の母親の県犬養三千代の影響が強く、聖徳太子を軸にした信仰は、この二人の女性によって整えられていった可能性が高い。
 県犬養三千代という女性は、藤原不比等の後妻となる前、敏達天皇の子孫に当たる美努王(みののおう)に嫁ぎ、葛城王・佐為王・牟漏女王という三人の子を儲けた。
 葛城王は、藤原四兄弟の死後、政権トップとなった橘諸兄。佐為王は、法隆寺への様々な献納で知られる橘古那可智の父。牟漏女王が、藤原北家の祖の藤原房前に嫁いだので、平安時代に栄える藤原北家は男系では藤原氏だが、その女系の祖が彼女であり、だとすると、藤原道長をはじめ長期間にわたって栄華を誇った藤原北家のルーツに、県犬養三千代の存在が隠れている。奈良時代から平安時代にかけて、「藤原氏の政治」だけに注目がいっているが、それは表に見える部分しか見ていないということだ。

 法隆寺で公開されている阿弥陀如来脇侍像(伝橘夫人念持仏)は、県犬養三千代が、自らの枕元において拝んでいたものを、娘の光明皇后法隆寺に寄進したものとされるが、光明皇后の仏教への帰依は、母親の県犬養三千代の影響が大きかったと考えられている。

 県犬養三千代は、少女期に氏女(うじめ)として朝廷に出仕し、宮人(くにん=女性官人)となったが、この後、聖武天皇に至るまで六代の天皇の朝廷に仕えた。彼女は、軽皇子文武天皇)の乳母を務めたと推測され、さらに、首(おびと)皇子=聖武天皇の母親の宮子が病がちであったため、聖武天皇の乳母でもあった可能性が指摘されている。
 また平城京に遷都した女帝の元明天皇が幼い時からの養育者でもあり、元明天皇からの信頼が厚く、藤原不比等の出世は、県犬養三千代の存在が大きかったとも言われる。
 和泉黄金塚古墳から伊勢斎宮を結ぶライン上の、美具久留御魂神社(富田林市)あたりは、古代の古市郡であり、県犬養三千代の本貫は、このあたりだとされている。
 すると、叡福寺の太子町は、県犬養三千代の本貫から石川を挟んで対岸の地であり、太子町に築かれた聖徳太子墓所とされる叡福寺北古墳の石室は、飛鳥時代ではなく7世紀後半のものであることからして、県犬養三千代が関わっている可能性がある。
 太子の母親の穴穂部間人や妃の膳部菩岐々美郎女を聖徳太子と合葬するという構造や、その叡福寺の正面に、飛鳥時代の尼僧である善信尼たち3人と結びつけた西方院を築いたのは、奈良時代前半、女性の霊性を意識したうえでの、宗教的な政策なのだろう。この頃は、持統天皇元明天皇元正天皇という女帝が続いた時代でもあり、政策面においても、女性の県犬養三千代や、彼女の娘の光明子の影響力が大きかった可能性が高い。

 奈良の律令制というのは、それまでになかった新体制であり、その理念を浸透させることは簡単ではなく、武力だけで反対派を押さえ込むのは不可能だったと思われる。
 壬申の乱で勝利した天武天皇が強引に押し進めることで実現できるほど、歴史は単純ではないのだ。
 この歴史上の大変革の前に、いったい何があったのか?
 それは、日本書紀の記録に明らかに示されている。
 律令制が始まる直前、とりわけ、白村江の戦い(663年)と古代最大の内乱である壬申の乱(672年)のあいだは聖書の黙示録のような状況だった。
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 天智紀3年(664年)3月。難波京の北で星が落ちた。地震があった。
 666年 6月、大旱魃。 秋7月、箒星が東の空に現れた。9月になって大空に覆った。
 667年夏5月、旱魃があり、6月、大地震があった。
 668年冬12月、鳥が空を覆って、西南から東北方向に飛んでいた。 筑紫の国で大地震があった。多数の民家が崩壊した。丘が崩れて流れ出た。。
 669年6月。雹が降った。大きさは桃の実ほどもあった。
 10月、地震があった。11月、また地震があった。
 670年8月。灰が降った。雷電が激しかった。9月、地震が発生した。11月、日蝕があった。後日、月蝕も起こった。
 671年6月、雨乞いをした。地震がまたあった。9月、箒星が現れた。火星が月と重なった。10月、日蝕があった。 その後地震が起こった。11月、地震がまたあった。
 672年1月、地震があった。3月、また地震があった。7月にも地震が発生した。
 8月、灌頂幡のような形の火色のものが、空に浮かんで北に流れ日本海に沈んだ。この日、水蒸気が東の山で発生し、その大きさは一丈二尺もあった。 次ぎの日、地震が起きた。虹が天の中央に向かい合って現れた。
 673年7月から8月に至るまで日照り続きで雨が降らなかった。
 674年6月、雨乞いをした。7月、箒星が西北の空にあらわれた。
 10月、夜中に大地震があった。人々は、叫びながら逃げ惑った。山崩れが起こり、土砂は川に溢れた。伊予の国の道後温泉では湯がでなくなり、土佐の国では田畑が一千町歩も埋まり海となった。古老曰く。このような地震古今東西はじめてであると。
 東方の海で鼓の鳴るような音が聞こえ、伊豆大島の西と北の両面が三百丈余りひろがり、新島ができた。
 11月、土佐の国から高波が押し寄せ、海水が溢れ返った。
7つの星が東北の方へ流れ落ちた。日没時、星が東の方へ落ちた。
夜8時頃、隕石が大空を雨のように流れ落ちた。
 天の中央に仄かに光る星があり、昴と並んで動いていた。
 675年3月、信濃の国に灰が降って草木が枯れた。12月、西の方で地震が起こった。

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京都と東京でワークショップを行います。
<東京>2025年6月21日(土)、6月22日(日)
<京都>2025年7月26日(土)、7月27日(日)
 *亀岡のフィールドワークを予定。
*いずれの日も、1日で終了。
 詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
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新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております。

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室生龍穴神社 奥宮



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